◆佐藤尽とは
フィジカルコンタクトに優れ、対人プレーで強さを発揮するDF佐藤尽。
国士舘大学ではキャプテンを務め、関東リーグでの優勝や全日本大学選手権での優勝の立役者となり、ユニバーシアード日本代表に選出された。
大学実屈指のセンターバックとして横浜フリューゲルスに入団し、その後は京都サンガ、コンサドーレ札幌でプレー。
2004年には北海道出身選手としては初となるキャプテンを務め、チームを牽引した。
佐藤尽のJリーグ入り前
室蘭市立大和小学校入学後にサッカーを始め、鶴ヶ崎中学校卒業後、室蘭大谷高等学校に進学。
室蘭大谷高等学校では、同級生に井幡博康(名古屋グランパス)、1学年下に葛野昌宏(ベルマーレ平塚)、伊藤壇(ベガルタ仙台)がいる。
高校2年次に選手権に出場し、背番号5を背負い、中盤の底でプレーしベスト8入りを達成。この活躍が実り、全日本ユース代表にも選出されている。
高校3年次にも選手権に出場。1回戦で大森健作、大木勉らがいる南宇和に0-2で敗れている。
高校総体ではベスト8入りを果たした。
高校卒業後、国士館大学へ進学。大学の同期に浦田尚希(川崎フロンターレ)、今野章(ジュビロ磐田)、1学年上に大柴健二(浦和レッズ)、2学年上に伊藤彰(川崎フロンターレ)、深川友貴(セレッソ大阪)、土橋正樹(浦和レッズ)、安藤正裕(清水エスパルス)などがいた。
大学3年次に関東大学リーグ優勝に貢献。4年次には関東大学リーグ準優勝、全日本大学選手権で優勝に貢献した。
佐藤はキャプテンとしてチームを牽引し、数多くのタイトルを獲得。
大学2年次から全日本大学選抜に3年連続で選出。
大学3年次はユニバーシアード日本代表として国士館大学からただ一人選出され、背番号6を背負い奮闘。
斉藤俊秀、上野優作、望月重良、寺田周平らと躍動し福岡大会での優勝に貢献した。
またU-23日本代表にも選出され、アトランタオリンピック予選を戦うメンバーに選出された。
佐藤は大学卒業後、横浜フリューゲルスへ入団する。
佐藤尽のJリーグ入り後
1997年、大学サッカー屈指のセンターバックとして鳴り物入りで横浜フリューゲルスへ入団するも、前田浩二や薩川了洋らが起用されたため、ルーキーイヤーは僅か3試合の出場に留まった。
1998年、背番号4を背負い、巻き返しを図るもリーグ戦14試合の出場に留まり、この年でフリューゲルスを退団する。
1999年、京都パープルサンガへ移籍。
フリューゲルス時代に共にプレーした大嶽直人とコンビを組み、センターバックとして開幕戦の柏レイソル戦から出場。
シーズン終盤からは3バックの右として出場。手島和希、辻本茂輝とDFラインを形成した。
2002年は鈴木政一監督のもとで開幕戦のジェフ市原戦から4試合連続でフル出場を果たすも、チームは4連敗を喫し5試合目からは先発を外れた。
その後、京都は6連勝して軌道に乗ったため、佐藤は出場機会を失い、このシーズン途中でコンサドーレ札幌へ移籍。
札幌ではシーズン途中の加入ながら、センターバックとしてレギュラーを奪取し出場を続けるも、札幌は5勝1分24敗の最下位となりJ2へ降格した。
2003年はJ2での戦いとなったが、キャリアハイとなるリーグ戦28試合で4得点と活躍。
昇格争いには絡めなかったが、札幌の最終ラインとして存在感を示した。
2004年は北海道出身選手として初となるキャプテンに就任。
開幕戦のヴァンフォーレ甲府戦で先発するも右ひざ内側側副靭帯損傷を負い、無念の途中交代となる。
その後、約1ヶ月戦線を離脱し、シーズン中盤に復帰するもリーグ戦14試合の出場に留まりこの年限りで現役を引退した。
佐藤尽の引退後と現在
佐藤は引退後、コンサドーレ札幌でスカウトを担当。
その後、指導者として活動し、コンサドーレ札幌U-15の監督を務めた。
2016年からは京都サンガF.Cのトップチームコーチを務め、2021年からモンテディオ山形のトップチームコーチを務めている。