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沢田謙太郎の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第412回】

思い切りのいいオーバーラップと、精度の高いクロスを武器に右サイドバックを主戦場とした沢田謙太郎。

中央大学を経て入団した柏レイソルでは、新人王とベストイレブンのタイトルを獲得し、攻守の中心人物として躍動。

入団3年目には日本代表に選出され、パラグアイ戦でデビューを飾り、4試合に出場を果たした。

沢田謙太郎のJリーグ入り前


沢田は1970年に神奈川県鎌倉市に生まれた。

小学校4年生の時にサッカーを始め、粟船フットボールクラブに入団。

大船中学校卒業後、藤沢西高校へ進学。同級生に小椋哲也(ガンバ大阪)、宮澤浩(ジェフユナイテッド市原)がいる。

高校1年次には向上高校とともに神奈川県代表として高校総体に出場しベスト8に進出しているが、高校選手権への出場は叶わなかった。
また、高校3年次には神奈川県選抜に選出され国体でベスト8入りに貢献した。

高校卒業後、中央大学へ進学。
同学年には宮澤浩、1学年上には菊原志郎(ヴェルディ川崎)、大熊裕司(柏レイソル)、村田一弘(セレッソ大阪)、横山雄次(柏レイソル)がおり、1学年下には長谷部茂利(ヴェルディ川崎)、菅野賢一(柏レイソル)、2学年下には渡辺毅(柏レイソル)がいる。

大学4年次にはキャプテンとしてチームを牽引し全日本大学サッカー選手権大会の決勝で早稲田大学を破り優勝。沢田は大会最優秀選手に選出されている。
また、総理大臣杯ではベスト4入りの原動力となった。

1993年、大学卒業後にJFLの柏レイソルに入団する。

沢田謙太郎のJリーグ入り後

1993年、柏レイソルに入団した沢田は、1年目ながらリーグ戦12試合に出場。
2年目のシーズンはリーグ戦全試合に出場し、リーグ2位でJリーグ昇格に貢献。
沢田は新人王のタイトルを獲得し、柏レイソルではカレカとともにベスト11にも選出された。
この年のレイソルはリーグ2位の得点数とリーグ1位の最少失点数を誇り、右サイドバックの沢田は攻守の中心選手としてチームを牽引した。

1995年は開幕戦の清水エスパルス戦からフル出場を続け、リーグ戦43試合に出場。
8月16日NICOSシリーズ第2節ガンバ大阪戦では、激しい点の取り合いとなり4-3での勝利となったが、柏の得点の全アシストを沢田が記録している。
またこの年は日本代表に選出。
1995年9月20日に国立競技場で開催されたデサントアディダスマッチでパラグアイ代表との対戦で、名良橋晃と交代で後半途中から出場し代表デビューを飾った。
その後も、10月28日のサウジアラビア戦でも柳本啓成と交代で出場している。

1996年も柏で不動の右サイドバックとして君臨。
代表でも加茂周監督から引き続き招集され、2月10日のオーストラリア代表戦で中村忠と交代で出場。
2月14日にメルボルンで行われたオーストラリア代表戦では先発出場を果たすも前半終了と同時に柳本啓成と交代した。
その後は柳本啓成が右サイドバックで起用されるようになったため、この試合が沢田にとって最後の代表戦となった。

1998年からはシステムが4バックから3バックと移行した試合ではスタメンを外れるようになった。
この年、戦力外通告を受け、柏レイソルを退団。

1999年、サンフレッチェ広島へ移籍。
開幕戦のセレッソ大阪戦からスタメンの座を掴み、終了間際に広島での初ゴールを決める。
その後も左サイドバックの服部公太とともにサンフレッチェの攻撃的な両翼として攻守にわたり活躍する。

2000年に駒野友一が入団し、右サイドバックとして頭角を現してからは次第に出場機会が減るもボランチとしても出場した。

2003年、前年J2に降格したサンフレッチェが1年でJ1へ昇格を果たすも、沢田自身は怪我の影響もありリーグ戦2試合の出場に留まり現役を引退した。

沢田謙太郎の引退後と現在

沢田は引退後、2004年からサンフレッチェ広島ユースのコーチに就任。

2006年からは、トップチームのコーチを務め、ヘッドコーチを経て、2021年からアカデミー部長に就任している。

沢田は攻撃の起点となれる当時のJリーグでは稀有なサイドバックだった。

高い位置でボールを持つと、縦への突破だけでなくアグレッシブなダイアゴナルランでゴール前まで侵入しフィニッシュに絡むというシーンも珍しくなかった。

その攻撃的なプレースタイルは、柏に入団するまで攻撃的なポジションを担っていた経験が生かされてのことだろう。

現在はサンフレッチェ広島のアカデミーで後進の育成を努める沢田謙太郎。

育成に定評のある広島からどのような選手が飛び出してくるのか楽しみである。

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