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佐藤尽の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第413回】

◆佐藤尽とは

フィジカルコンタクトに優れ、対人プレーで強さを発揮するDF佐藤尽。

国士舘大学ではキャプテンを務め、関東リーグでの優勝や全日本大学選手権での優勝の立役者となり、ユニバーシアード日本代表に選出された。

大学実屈指のセンターバックとして横浜フリューゲルスに入団し、その後は京都サンガ、コンサドーレ札幌でプレー。

2004年には北海道出身選手としては初となるキャプテンを務め、チームを牽引した。

佐藤尽のJリーグ入り前


佐藤は1974年に北海道室蘭市に生まれた。

室蘭市立大和小学校入学後にサッカーを始め、鶴ヶ崎中学校卒業後、室蘭大谷高等学校に進学。

室蘭大谷高等学校では、同級生に井幡博康(名古屋グランパス)、1学年下に葛野昌宏(ベルマーレ平塚)、伊藤壇(ベガルタ仙台)がいる。

高校2年次に選手権に出場し、背番号5を背負い、中盤の底でプレーしベスト8入りを達成。この活躍が実り、全日本ユース代表にも選出されている。

高校3年次にも選手権に出場。1回戦で大森健作大木勉らがいる南宇和に0-2で敗れている。
高校総体ではベスト8入りを果たした。

高校卒業後、国士館大学へ進学。大学の同期に浦田尚希(川崎フロンターレ)、今野章(ジュビロ磐田)、1学年上に大柴健二(浦和レッズ)、2学年上に伊藤彰(川崎フロンターレ)、深川友貴(セレッソ大阪)、土橋正樹(浦和レッズ)、安藤正裕(清水エスパルス)などがいた。

大学3年次に関東大学リーグ優勝に貢献。4年次には関東大学リーグ準優勝、全日本大学選手権で優勝に貢献した。
佐藤はキャプテンとしてチームを牽引し、数多くのタイトルを獲得。

大学2年次から全日本大学選抜に3年連続で選出。
大学3年次はユニバーシアード日本代表として国士館大学からただ一人選出され、背番号6を背負い奮闘。
斉藤俊秀上野優作望月重良寺田周平らと躍動し福岡大会での優勝に貢献した。

またU-23日本代表にも選出され、アトランタオリンピック予選を戦うメンバーに選出された。

佐藤は大学卒業後、横浜フリューゲルスへ入団する。

佐藤尽のJリーグ入り後

1997年、大学サッカー屈指のセンターバックとして鳴り物入りで横浜フリューゲルスへ入団するも、前田浩二や薩川了洋らが起用されたため、ルーキーイヤーは僅か3試合の出場に留まった。

1998年、背番号4を背負い、巻き返しを図るもリーグ戦14試合の出場に留まり、この年でフリューゲルスを退団する。

1999年、京都パープルサンガへ移籍。
フリューゲルス時代に共にプレーした大嶽直人とコンビを組み、センターバックとして開幕戦の柏レイソル戦から出場。
シーズン終盤からは3バックの右として出場。手島和希、辻本茂輝とDFラインを形成した。

2002年は鈴木政一監督のもとで開幕戦のジェフ市原戦から4試合連続でフル出場を果たすも、チームは4連敗を喫し5試合目からは先発を外れた。
その後、京都は6連勝して軌道に乗ったため、佐藤は出場機会を失い、このシーズン途中でコンサドーレ札幌へ移籍。

札幌ではシーズン途中の加入ながら、センターバックとしてレギュラーを奪取し出場を続けるも、札幌は5勝1分24敗の最下位となりJ2へ降格した。

2003年はJ2での戦いとなったが、キャリアハイとなるリーグ戦28試合で4得点と活躍。
昇格争いには絡めなかったが、札幌の最終ラインとして存在感を示した。

2004年は北海道出身選手として初となるキャプテンに就任。
開幕戦のヴァンフォーレ甲府戦で先発するも右ひざ内側側副靭帯損傷を負い、無念の途中交代となる。
その後、約1ヶ月戦線を離脱し、シーズン中盤に復帰するもリーグ戦14試合の出場に留まりこの年限りで現役を引退した。

佐藤尽の引退後と現在

佐藤は引退後、コンサドーレ札幌でスカウトを担当。

その後、指導者として活動し、コンサドーレ札幌U-15の監督を務めた。

2016年からは京都サンガF.Cのトップチームコーチを務め、2021年からモンテディオ山形のトップチームコーチを務めている。

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