DF

斉藤俊秀の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第33回】

知識に裏打ちされた読みの良さとカバーリング。

それが斉藤俊秀の最大の武器だった。

斎藤の的確な指示でエスパルスの堅守は維持出来ていたといっても過言ではない。

Jリーグでは新人王やベストイレブンを獲得し、日本代表としてフランスワールドカップのメンバーに選出。

かつてはあのアジアの壁といわれた井原正巳の後継者とまでいわれた。

清水東高校から早稲田大学に進み、頭脳派DFとよばれた男、斉藤俊秀に迫る。

斉藤俊秀のプロ入り前


斎藤は1973年にサッカーが盛んな静岡県清水市に生まれた。

堀池巧や大榎克己、長谷川健太などを輩出した清水FCでサッカーを学び、清水東高校へ進学。

斎藤はキャプテンとしてチームを率いり、1991年の全国高校総体では、決勝に進出。

静岡東高校と東海大一高の決勝戦は史上初の同県同士の戦いとなり、注目を集めた。

静岡東高校は延長戦の末、東海大一高を倒し全国制覇を達成した。

静岡東高校のDFの要として注目を集めた斎藤の進路が注目されたが、斎藤は早稲田大学への進学を選択する。

早稲田大学でも早いうちにレギュラーとして活躍し、大学四年時の1995年にはユニバーシアード日本代表の主将としてユニバーシアード福岡大会で優勝を飾る。

斎藤の元にはJリーグ9チームからオファーがあったが、地元である清水エスパルスを選択し、プロへの扉を開く。

斉藤俊秀のプロ入り後

斎藤は入団1年目の1996年からチームの主軸として活躍。

当時のエスパルス監督であるアルディレス氏からも絶大な信頼を獲得し、堀池巧とセンターバックを形成した。

斎藤は1年目に29試合に出場して2得点を挙げた。

エスパルスはリーグ戦こそ10位と低迷したものの、ヤマザキナビスコカップを制し、斎藤はニューヒーロー賞を獲得。

そしてエスパルスでは澤登正朗以来のJリーグ新人王を受賞した。

日本代表にもプロ1年目から選出。

1996年の親善試合ウルグアイ戦で日本代表デビューを飾った。

日本代表として1999年までコンスタントに召集され、代表通算17試合のキャリアを築く。

フランスワールドカップの日本代表にも選出されるが、井原正巳秋田豊の牙城は崩せず、ワールドカップでの出場は叶わなかった。

斎藤はその後もエスパルスで不動のレギュラーとして君臨。

度重なる怪我で2003年はリーグ戦2試合の出場に留まるが、翌2004年には完全復活を遂げる。

それまで3バックの右ストッパーが低位置だったが、センターバックの中央で最終ラインの舵を取るようになった。

翌2005年には長谷川健太氏がエスパルスの監督に就任。

斉藤は森岡隆三とともに4バックのセンターを形成した。

ベテランの味を存分に発揮し、エスパルスのDF陣を支えるも、シーズン終盤には高木和道らにポジションを明け渡す。

そして2007年には、11年在籍したエスパルスを退団し、湘南ベルマーレへ移籍。

ベルマーレには2年在籍し、84試合に出場した。

2008年には当時静岡県1部リーグの藤枝MYFCへ移籍。選手兼任監督として2013年までプレーし、引退を決めた。

藤枝はJFL昇格を決め、功労者である斎藤の背番号2は永久欠番となった。

斉藤俊秀の引退後と現在

斎藤は引退後に指導者に転身。

2018年にはU21日本代表のコーチに選出。

未来のフル代表を目指す世代を指導している。

知識と経験のある斎藤の入閣は日本サッカー連盟としても非常に心強いだろう。

まさに文武両道の道を歩んだ斎藤の挑戦は、指導者として続いていく。

選手一覧