FW

深川友貴の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第405回】

豊富な運動量と強靭な体を武器に、セレッソ大阪やコンサドーレ札幌で活躍したストライカー深川友貴。

ポストプレーに長け、キープ力もあるため、前線の起点となった。

Jリーグでは途中出場が多いながらも、出場した試合では質の高いプレーを見せ、貴重なゴールを奪った。

現役引退後は、コンサドーレ札幌U-18コーチを経て、障がい者サッカーの世界で指導を行っている。

深川友貴のJリーグ入り前


深川は1972年に北海道室蘭市に生まれた。

小学校でサッカーを始め、室蘭水元サッカー少年団に入団する。

室蘭東明中学校に進学後、サッカー部で活躍し中学2年次に日産Jrユースに入る。

中学校卒業後、北海道の室蘭大谷高等学校に進学。1学年上に京谷和幸(ジェフ市原)がいる。
高校時代は、1年次からレギュラーとして活躍し。1年次から2年連続で選手権に出場。1年次は2回戦、2年次は3回戦まで進出した。インターハイにも1年次から2年連続で出場している。

3年次には北海高校に予選の決勝で敗れて選手権への出場を逃しており、室蘭大谷の選手権連続出場は8年で途絶えた。また3年次にはU-18日本代表に選出されている。

深川は高校卒業後、国士館大学へ進学。
同学年に伊藤彰(川崎フロンターレ)、安藤正裕(清水エスパルス)、土橋正樹(浦和レッズ)、1学年下に大柴健二(浦和レッズ)がいる。

大学時代は関東リーグ優勝や、総理大臣杯での準優勝に貢献。
大学2年次には、大学生主体のメンバー構成で結成されたバルセロナオリンピック予選の日本代表に選出され1次予選に出場した。
澤登正朗(清水エスパルス)、名塚善寛 (ベルマーレ平塚)、名波浩(ジュビロ磐田)、三浦文丈(横浜マリノス)らと奮闘し、1次予選は2位突破するも最終予選は1勝しか出来ずに敗退することになった。

深川は大学卒業後、セレッソ大阪へ入団する。

深川友貴のJリーグ入り後

1995年はルーキーイヤーながらコンスタントに出場の機会を得ると第15節浦和レッズ戦でJリーグ初ゴールを記録。
続く第16節ベルマーレ平塚戦、第18節ジュビロ磐田戦でゴールを決め、いずれの試合も勝利している。
このシーズンはルーキーイヤーながらリーグ戦23試合で3ゴールを記録した。

1996年はナルシーゾやマルキーニョスがスタメンで起用されたため、後半途中からの出場が多く、リーグ戦17試合で1ゴールの成績となった。

1997年の深川は、3月8日のナビスコカップ第1節鹿島アントラーズ戦で公式戦初ゴールとなる先制点を奪う。
このゴールはセレッソの1997シーズン初ゴールとなった。
その後は、横山貴之や高正云、西澤明訓らとポジションを争うことになるが、コンスタントに出場機会を得る。
2ndステージ第12節ベルマーレ平塚戦でゴールを決めると、第14節横浜マリノス戦では2ゴールを決めるなど活躍。
このシーズンはリーグ戦18試合で3ゴールを記録した。

1998年は出場機会を求めてコンサドーレ札幌へ移籍。
フェルナンデス監督のもとで信頼を勝ち取り、開幕戦の清水エスパルス戦から先発出場を果たした。
その後はバルデス、吉原宏太有馬賢二らと激しいポジション争いを演じた。
しかしコンサドーレはシーズン後半の失速が響き、Jリーグ史上初のJ2リーグへの降格チームとなった。

1999年は自身初なるJ2での戦いとなったが、リーグ戦36試合で5ゴールを記録した。
コンサドーレでは後半出場が多いながらも、出場した試合では質の高いプレーを見せ、2001年までプレーした。

2002年はJ2の水戸ホーリーホックへ移籍。
経験豊富なベテランとして石川研、木山隆之、木澤正徳池田伸康らとチームを支える。
開幕戦から先発出場を続け、攻撃の起点となるがリーグ戦17試合でノーゴールに終わりこの年限りで現役を引退した。

深川友貴の引退後と現在

深川は引退後、コンサドーレ札幌の下部組織のコーチとして活躍。
その後、2011年から2014年まで城西国際大学サッカー部のコーチを務めた。

現在は北海道ろう者サッカー協会の理事を務めるなど、障がい者フットボールの世界でも活躍している。

深川の現在の活動や、これまでの葛藤にフォーカスしたインタビュー記事を読んだ。
非常に良い記事だったのでここに記しておきたい。

選手一覧