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安藤正裕の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第60回】

スピードを生かした攻め上がりで清水エスパルスの好守を支えた右サイドバック、安藤正裕。

1996年、当時の清水エスパルス監督であるアルディレス氏は攻撃的なサッカーを目指しており、安藤正裕というピースは欠かせないものであった。

トルシエ監督時代の1999年には日本代表にも選出され、コパアメリカのパラグアイ戦では代表キャップも記録。

2005年でユニフォームを脱ぐまで安藤正裕の正確なクロスから様々なゴールが生まれた。

安藤正裕のプロ入り前


安藤は1974年に埼玉県坂戸市に生まれた。

小学校では北坂戸サッカークラブに所属し、北坂戸中学校から越生高等学校に進む。

高校時代は無名の存在であったが、3年時の1990年に埼玉県選抜に選出され国民体育大会で優勝を経験。

高校を卒業して、サッカー選手を多く輩出している国士舘大学へ進学。

1995年に清水エスパルスへ入団した。

安藤正裕のプロ入り後

清水に入団した安藤は1年目はリーグ戦7試合の出場に留まるも、2年目のシーズンからレギュラーのポジションを獲得。

背番号は主に3番を背負い、右サイドをオーバーラップすると当時のエスパルスのエースであった長谷川健太やオリバのゴールを幾度となくアシストした。

1999年にはトルシエ監督の元、日本代表にも選出されコパアメリカに出場。

パラグアイ戦にて代表デビューを果たしたがこの試合が最初で最後の代表戦となった。

しかし1999年は市川大祐の台頭により出番が減少。シーズン途中には同じ静岡県をホームにもつジュビロ磐田へ移籍した。

同年のチャンピオンシップでは古巣の清水と対戦し、第一戦の中山雅史の先制ゴールをアシストすると、守備でも同年のJリーグMVPに輝いたアレックスを抑え込み、磐田に年間優勝のタイトルをもたらした。

その後は2000年に横浜Fマリノス、2001年には大宮アルディージャ、2002年にはガンバ大阪、ベガルタ仙台、2003年には京都パープルサンガなど所属先を転々としながらも正確なクロスをあげられるサイドバックとして重宝される。

2004には再度大宮アルディージャでプレー。

安藤正裕はキャプテンとして大宮のJ1昇格に貢献した。

2005年はリーグ戦4試合のみの出場に留まりこのシーズン限りでユニフォームを脱いだ。

安藤正裕の引退後と現在

安藤は引退後、創業支援事業やスポーツ関連事業を営む株式会社エー・ケイ・プランニングという会社を設立。

代表取締役としてJFAこころのプロジェクトで夢先生を務めたり、サッカー教室を展開している。

11年間で7チームを渡り歩いた現役生活だった。

安藤は今後もスポーツ界に精度の高いクロスボールを供給し続ける。

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