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熊谷浩二の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第414回】

熊谷浩二とは

運動量豊富なボランチとして鹿島アントラーズ、ベガルタ仙台で活躍したMF熊谷浩二。

1995年にはU-20日本代表のキャプテンとして、ワールドユース選手権ベスト8進出に貢献した。

中盤の底から正確なボールコントロールでチャンスを演出し、2000年の鹿島3冠の原動力となった。

ベガルタ仙台ではキャプテンを務め、守備的ポジションを数多くこなしたユーティリティプレーヤーである。

熊谷浩二のJリーグ入り前


熊谷は1975年に青森県十和田市に生まれた。

十和田市立南小学校入学後にサッカーを始め、十和田南サッカー少年団に入部する。

その後、十和田キッカーズジュニアに加入し、全日本少年サッカー大会に出場した。

十和田市立三本木中学校サッカー部で活躍後、三本木農業高等学校へ進学。

高校時代は選手権に出場は出来ず、全国的に無名の選手であり卒業後は大学進学を志していたが、鹿島アントラーズからオファーを受け、高校卒業前に入団が決定する。

熊谷浩二のJリーグ入り後

熊谷は、高卒1年目ながら第2節ヴェルディ川崎戦戦からベンチ入りを果たすと、1994年4月6日第7節名古屋グランパスエイト戦で後半20分に石井正忠と交代で出場しデビューを飾った。
その後も、コンスタントに出場の機会を得て1年目ながらリーグ戦11試合に出場した。

また同年、アジアユース選手権を戦うU-19日本代表に選出され、インドネシア大会に出場し、準優勝に貢献。翌年のFIFAワールドユース選手権カタール大会の出場権を得た。
この大会には鹿島から大森健作鈴木隆行森岡隆三が選出された。

1995年、鹿島でのリーグ戦出場は6試合に留まったが、U-20日本代表に選出されワールドユース選手権カタール大会に出場。
熊谷は背番号7を背負い、キャプテンとして日本のベスト8進出に貢献した。
ともに戦った選手には本田征治秋葉忠宏大森健作森岡隆三松田直樹山田暢久安永聡太郎大木勉山西尊裕、萩村滋則、薮田光教、中田英寿、鈴木和裕奥大介下田崇といったメンバーが名を連ねた。

1996年、守備的なポジションには本田泰人ジョルジーニョといった高い壁がおり、出場機会に恵まれなかった。

1998年はゼロックススーパーカップからスタメンの座を掴み、ボランチとして出場を続ける。
第2節コンサドーレ札幌戦でシーズン初ゴールを決め、第4節京都パープルサンガ戦で前半12分に2点を決める。
飛躍が期待されたが直後に負傷し、前半14分にルーキーの中田浩二と交代。この試合がこのシーズン最後に出場となった。

その後も怪我を繰り返し、中々出場機会を得られずにいたが2000年には完全復帰。
中田浩二小笠原満男ビスマルクと中盤を形成し、鹿島の3冠に大きく貢献した。

この活躍が実り、2001年にはトルシエ監督により日本代表候補に選出された。
この年はボランチとしてリーグ戦20試合に出場し、鹿島アントラーズの年間優勝に貢献。

2003年頃から出場機会を大きく減らし、2004年7月にJ2ベガルタ仙台へ完全移籍。

仙台では2004年8月8日第26節川崎フロンターレで千葉直樹と交代で初出場を果たした。
その後はレギュラーとして活躍しリーグ戦13試合に出場した。

2005年は怪我に悩まされながらも、キャプテンとして奮闘しリーグ戦27試合に出場。
本職のボランチだけでなく、中盤全般やディフェンスとしても出場を果たした。

2005年シーズン終了後、現役を引退した。

熊谷浩二の引退後と現在

熊谷は引退後、2006年から鹿島アントラーズでスカウトを担当。

2014年からはユース監督を務め、2020年からはトップチームのコーチを務めた。

2022年はアルビレックス新潟U-18の監督を務め、2023年からは地元青森のJ3ヴァンラーレ八戸のゼネラルマネージャーに就任している。

熊谷は目立つタイプの選手ではなかったが、総合力が高く、まさに攻守の要として常勝鹿島を支える存在だった。

プロ入り前は全くと言っていいほど無名の選手であったが、プロでは日本代表候補に選出されるなど非常に高いパフォーマンスを発揮していた。

20代前半に負った怪我の影響で出場機会に恵まれなかったのが悔やまれる。

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