GK

本田征治の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第410回】

徳島市立高時代は1年次からレギュラーとして活躍。3年連続で選手権に出場し、全日本ユース、インターハイでの優勝を経験するなど世代屈指のGKとして名を馳せた本田征治。

大学時代に開催された1995年ワールドユース選手権では、日本代表のGKとして2試合に出場した。

プロでは出場機会に恵まれない時期を過ごすも、晩年に所属したザスパ草津では正GKとして活躍。

ビッグセーブを連発し、魅せるGKとしてサポーターから愛された。

本田征治のJリーグ入り前


本田は1976年に徳島県板野郡北島町に生まれた。

小学校入学後、2人の兄の影響で北島FCに入団してサッカーを始める。

生光学園中学校進学後、GKとしてすぐに頭角を現す。

中学卒業後、徳島市立高等学校に進学。同学年に佐藤城介(ガンバ大阪)、1学年下に藤田聡(ガンバ大阪)、2学年下に藤本主税(アビスパ福岡)がいる。

徳島市立高等学校では1年次から正GKとして活躍。
1年次に出場した選手権では、1回戦で盛岡市立を4-1で下し、2回戦で北陽を4-1で沈め、3回戦では高田昌明をようする市立船橋と対戦するが0-1で敗れている・
またこの年の全日本ユースでは決勝戦で国見を破って優勝した。

2年次の選手権では、1回戦で大垣工を4-2で下し、2回戦で仙台育英を1-0で破り、3回戦は習志野高校と対戦するもPK戦の末に敗れている。
またこの年のインターハイでは決勝戦で市立船橋を破って優勝した。

3年次の選手権では1回戦で富山一を1-0で下すも、2回戦で桐光学園に0-1で敗れている。

高校卒業後、中京大学へ進学。

大学時代は、1年次から年代別日本代表に選出される。

1994年に開催されたアジアユースU-19選手権では日本のゴールマウスを守り、準優勝に貢献。
翌年のFIFAワールドユース選手権にも背番号1を背負って2試合に出場した。

1995年、大学卒業後に名古屋グランパスエイトへ入団する。

本田征治のJリーグ入り後

1995年に名古屋に入団するも、正GKとして伊藤裕二が起用されたため、本田に出場機会は訪れなかった。
名古屋には1998年まで在籍するも、出場機会はないまま退団することになる。

1999年はベルマーレ平塚へ移籍。
掛川誠とし烈なポジション争いを繰り広げ、4月14日のヤマザキナビスコカップ第1節の大分トリニータ戦で公式戦初出場を果たすと、4月17日の第7節の名古屋戦でJリーグデビューを飾った。
対戦相手となった名古屋のGKは伊藤裕二であった。成長を見せたかった古巣との対戦だったが試合は1-3で敗れている。
その後も水谷雄一とポジションを争い、このシーズンは19試合に出場したが、ベルマーレは最下位となりJ2へ降格した。

2000年は名古屋に復帰。
しかし日本代表の楢崎正剛が正GKとして君臨していたため、本田はベンチを温める日々が続いた。

2004年シーズン途中でヴィッセル神戸へ移籍。
2ndステージ第2節柏レイソル戦で神戸での初出場を果たし3-0でのクリーンシートに貢献した。

2005年も神戸でプレーするも、出場機会は多くなくリーグ戦8試合の出場に留まった。

2007年からはJ2のザスパ草津へ移籍。
開幕戦からゴールマウスを守り、自身初となるリーグ戦全試合に出場。

2009年、3シーズンプレーした草津から戦力外通告を受ける。
第50節のベルマーレ戦では、PKストップなどのスーパーセーブを連発し、0-0での引き分けに貢献し意地を見せた。
シーズン終了後に現役引退を表明した。

本田征治の引退後と現在

本田は引退後、指導者として活躍。
スクールのGKコーチなどを経て、2020年には甲南大学のGKコーチに就任した。

現役時代、出場した試合ではファインセーブを連発して窮地を救ったGK本田征治。

安定したセービングは世代屈指と言われながらも、名古屋では伊藤裕二、楢崎正剛の牙城を崩せずに正GKの座を掴むことはできなかった。
しかし、草津では正GKとして活躍。「炎の守護神」と呼ばれ、草津サポーターに愛された。

選手一覧