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公文裕明の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第246回】

1994年NICOSシリーズで躍進を見せたベルマーレ平塚において、公文裕明が担った役割は大きい。

Jリーグ屈指の超攻撃型サイドバックである岩本輝雄、名良橋晃を攻撃最大のオプションとしていたベルマーレ。1994年前期のサントリーシリーズでは、開幕戦から12試合連続ゴールを決めるなど、Jリーグでも十分通用する所を証明したが、サイドバックが上がったスペースを突かれて大量失点を喫してしまう試合も珍しくなかった。

最大の武器でありながら、諸刃の剣でもあったサイドバックの問題を解消したのは公文裕明の存在だった。

岩本輝雄のポジションをひとつ上げて、そのスペースを埋めるように左サイドバックに公文裕明を入れたベルマーレ平塚は攻守のバランスが取れストロングポイントはそのままに、守備面でも大きな改善を見せた。

公文裕明のJリーグ入り前


公文裕明は1966年に神奈川県に生まれた。

中学卒業後に鎌倉高校へ進学。1学年下に堀孝史がいた。高校卒業後、青山学院大学へ入学。

1988年に青山学院大を卒業後、古河電工(現ジェフユナイテッド)に加入。同期入団に下川健一がいる。

公文は初年度からリーグ戦6試合に出場するも古河は金子久、阪倉裕二影山雅永宮澤ミシェルなどDFが充実しておりその後も出番は少なかった。

1992年にJFL所属のフジタ(現湘南ベルマーレ)へ移籍。加入初年度からサイドバックとしてリーグ戦10試合に出場。加入2年目のJシーズンにフジタはJFLで優勝。

フジタはベルマーレ平塚へ改称し、ジュビロ磐田と共にJリーグ昇格した。

公文裕明のJリーグ入り後

公文は1994年3月19日1stステージ第3節清水エスパルス戦でJリーグデビューを飾る。

公文は本職の左サイドバックだけでなく、右サイドバックやセンターバックとしてもプレー出来る為に重宝されたが、ベルマーレのサイドバックは左に岩本輝雄、右に名良橋晃を配置し攻撃的なフォーメーションを採用していた為に、公文はバックアッパーとしてベンチ入りを続けた。

しかしベルマーレは得点は取れるものの、攻撃的なフォーメーションが災いし次第にオーバーラップをしたサイドバックの裏を攻められるようになる。1stステージはリーグワーストとなるリーグ戦22試合で54失点と守備の脆さが浮き彫りとなった。

2ndステージの立て直しが求められる中、ベルマーレはそれまで左サイドバックを務めていた岩本輝雄をオフェンシブハーフにコンバートし、左サイドバックに公文裕明を起用するフォーメーションを採用。

岩本輝雄の攻撃力を生かし、課題であった守備面は公文がカバーするこのフォーメーションは見事にはまる。ベルマーレは快進撃を続け、失点数はJリーグ最小失点となるシーズン通算26失点となるまでに守備が安定した。惜しくもヴェルディ川崎に1勝差で優勝こそ逃すものの、最後まで優勝争いに絡む躍進を続けた。

天皇杯でも安定した守備と強力な攻撃力で勝ち上がり、決勝でC大阪を破り初優勝を飾った。
公文は身長こそ170cmに満たず小柄であるがエネルギッシュな守備で「公文式勝利の方程式」と呼ばれる活躍を見せた。

1995にはアジアカップウィナーズカップ優勝を果たした。その後も安定した守備でベルマーレを支え、1997年からは背番号6を背負い堅実な左サイドバックとして活躍。

1999年、当時まだ発足して間もない横浜FCに移籍する。横浜FCでは高田昌明、幸田将和、真中幹夫とともにDFラインを支え、2000年のJFLリーグ初代優勝に貢献した。

2001年J2へ昇格しても堅実な守備は健在で、リーグ戦26試合に出場。翌年も21試合に出場するがこの年限りで現役を引退した。

公文裕明の引退後と現在

公文裕明は引退後、横浜F ・マリノスの強化部 に入りスカウトを担当している。

1994年、サントリーシリーズではリーグワーストの54失点を喫したベルマーレ平塚だったがNICOSシリーズではリーグ最少の26失点まで持ち直し、優勝したヴェルディ川崎に一勝差まで迫る快進撃を見せた。

その立役者となった公文はNICOSシリーズ第19節浦和レッズ戦で警告を受け、2試合の出場停止となってしまう。

優勝がかかった終盤の公文の離脱はあまりにも大きく、第20節のジュビロ磐田戦では辛くも勝利を収めるも第21節の鹿島アントラーズ戦では1-3で敗れている。

もしも鹿島戦に公文裕明が出場していたら、ベルマーレ平塚の優勝があったかもしれない。そう想像してしまうほどにこの年の公文裕明の活躍は大きかった。

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