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石井正忠の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第66回】

鹿島アントラーズがJリーグ初年度を戦った時の初代キャプテン、石井正忠。

安定した技術とミスの少ないプレーで鹿島アントラーズを支えた。

本職はMFだが、GK以外のポジションは何処でもこなし、代表戦で鹿島の選手が抜けたポジションをことごとく埋めてみせた。

時折見せるミドルシュートは精度が高く、1993年に鹿島アントラーズが1stステージで優勝を決めた7月7日の浦和レッズ戦では、ジーコやアルシンドが不在の中、右足インサイドでノートラップで振り抜いたミドルシュートは勢いよく浦和ゴールに突き刺さった。

石井正忠のプロ入り前


石井は1967年、千葉県市原市に生まれた。

市原市立八幡中学校でサッカーを学び、千葉県立市原緑高等学校に進学。

緑高では石井の二つ上に鹿島アントラーズで共にプレーをする古川昌明や横浜マリノスなどでプレーをした松橋力蔵がいた。

石井は後年、サッカー人生において一番厳しかったのは高校3年間であるが、人間形成の意味で非常に役立ったと語っている。

石井は高校卒業後、順天堂大学へ進学。

大学卒業後、1989年に当時日本サッカーリーグ2部所属だったNTT関東(現大宮アルディージャ)へ入団。

1年目から出場機会を獲得。加入初年度はリーグ戦19試合に出場した。

2年目のシーズンもリーグ戦24試合に出場しレギュラーとして活躍するも、1991年、既にプロ化に向けて動き始めていた住友金属工業(現鹿島アントラーズ)へ移籍する。

石井正忠のプロ入り後

1993年、Jリーグ開幕戦。

石井は背番号9をつけMFとして出場。5-0で名古屋グランパスエイトを下す勝利に貢献した。

初年度はリーグ戦22試合に出場、2得点を挙げた。

当時のJリーグは固定番号制ではなかった為、様々なポジションで起用された石井は多くの番号をつけてプレーをした。

1995年まではレギュラーとして出場するも、1996年以降は若手の台頭もあり出場機会が減少。

1998年にアビスパ福岡へ移籍するも1シーズンのみプレーをし、この年限りで引退した。

石井正忠の引退後と現在

石井は引退後、1999年から鹿島アントラーズで指導者に転身。

ユースコーチやフィジカルコーチ、トップチームコーチを経て2015年に鹿島アントラーズの監督に就任。

石井はクラブ史上2人目となる日本人監督となった。

2015年10月31日、Jリーグカップで優勝。このタイトルを皮切りに、2016年には1stステージ優勝、チャンピオンシップでも優勝を果たした。

また石井は2015年のJリーグアウォーズで最優秀監督賞を受賞。 FIFAクラブワールドカップ2016では、日本人監督史上初の決勝進出に導く活躍を見せた。

2017年5月に鹿島アントラーズ監督を退任後、11月には大宮アルディージャの監督に就任し2018年まで指揮をとった。

石井の次なる挑戦はどのようなものなのか。

クラブW杯で史上初の決勝進出を成し遂げた日本人監督の次なる戦いに期待が集まる。

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