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大木勉の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第401回】

一瞬の速さでスペースを突く絶妙なポジショニングで、数々のゴールを生んだFW大木勉。

サッカーインテリジェンスが高く、ボールの引き出し方や、味方の能力を生かす献身的なプレーはJリーグ屈指といわれた。

1995年にはU-20日本代表の主力メンバーとして活躍し、AFCユース選手権準優勝と翌年のワールドユースベスト16進出の立役者となった。

サンフレッチェ広島時代は久保竜彦とのコンビで多くのゴールを演出し、最高の相棒として久保から絶大な信頼を得ていた。

大木勉のJリーグ入り前


大木は1976年に愛媛県松山市に生まれた。

小学校2年生の時に2人の兄の影響でサッカーを始める。

中学校進学後、サッカー部で活躍。愛媛県選抜や四国選抜に選出された。
中学時代のポジションはサイドハーフだった。

ラグビーをやっていた父親の影響で、2人の兄は高校からラグビーの道に進むが、大木はサッカーで選抜に選ばれていたことや、中学2年次に地元の南宇和高校が選手権で優勝したことを受け、南宇和でサッカーを続けることを選択した。

南宇和高校進学後、下宿生活をしてサッカーに打ち込む日々を送る。
同学年に大森健作(横浜マリノス)、友近聡朗(愛媛FC)、1学年下に吉村光示(サンフレッチェ広島)がいる。

高校2年次にFWへコンバートされ、レギュラーとして活躍。
2年次に出場した選手権では1回戦の室蘭大谷戦、2回戦の真岡戦で得点を挙げ、ベスト8へ進出するも、浅利悟(FC東京)や室井市衛(鹿島アントラーズ)のいる武南の守備を崩すことができず0-1で敗れていている。

高校3年次には背番号10を背負い、愛媛県予選はいずれの試合も大量得点で圧勝し選手権出場の切符を掴む。
2回戦でまたもや武南と対戦することになり、大木は得点を挙げるも、1-1でPK戦に突入し、惜しくも敗れている。

高校卒業後、プロ入りはせずに青山学院大学へ進学。
同年、AFCユース選手権1994の日本代表に選出。
ジャカルタで行われたアジア予選に背番号11を背負い主力として出場。

この当時の代表メンバーは中田英寿(ベルマーレ平塚)、松田直樹(横浜マリノス)、安永聡太郎(横浜マリノス)、田中誠(ジュビロ磐田)、大森健作(横浜マリノス)、山田暢久(浦和レッズ)、山西尊裕(清水エスパルス)など後のJリーグで活躍する選手が名を連ねている。

初戦のタイ代表選から先発出場し、準決勝のイラク代表選では中田英寿のクロスをワンタッチで合わせるゴールなど、殊勲の2点を挙げ、3-0での勝利に大きく貢献した。
決勝戦のシリア代表選でも先発するが、PA内での混戦の中、クリアボールが審判に当たって跳ね返ってきたボールをシリアのFWマハマルジにヘッドで押し込まれる不運なゴールで先制点を奪われ、その後もまたもやマハマルジに決められ劣勢に立たされる展開となった。日本は後半に大木がGKを抜いて無人のゴールに流し込むも2-1で惜しくも準優勝となった。

大木はこの大会で世界を舞台に戦えるという自信を深め、大学を中退しサンフレッチェ広島へ入団することを決意する。

大木勉のJリーグ入り後

1995年にサンフレッチェ広島へ入団した大木は、1995年5月3日サントリーシリーズ第13節柏レイソル戦でベンチ入りすると後半にMF大西貴と交代で初出場。
そ10分後にノジュンユンの右からのクロスを頭で押し込ゴールを決め、鮮やかなデビューを飾った。

同年開催された1995年FIFAワールドユースでも引き続き日本代表の主力として活躍。
グループ予選初戦のチリ戦では貴重は同点ゴールを奪い、引き分けに持ち込む活躍を見せた。
グループ予選を2位で通過した日本は決勝トーナメント初戦でブラジル代表と対戦。
大木は先発フル出場するも1-2で惜しくも敗れている。

その後も盟友・久保竜彦のパートナーとして活躍するも、ヴィドマー、高橋泰、森山泰行らの活躍を受け、レギュラー獲得とではいたらなかった。

2001年、出場機会を求めて大分トリニータへ移籍するも怪我の影響もあり出場機会は少なかった。

2002年、一時は引退を考えるも、半年契約でサンフレッチェ広島へ復帰。
復帰当初はベンチ入りも出来ずに苦しんだが、契約が切れる直前のナビスコカップFC東京戦で高橋泰と交代で出場すると延長後半にVゴールを決める活躍をみせた。
その後はレギュラーを掴み、久保竜彦とのコンビでゴールを量産。キャリアハイとなるリーグ戦8ゴールをマークした。

その後はFWだけでなく、パスセンスを活かしてトップ下としてもプレーし2006年までサンフレッチェ広島に在籍した。

2007年、合同トライアウトに参加し、地元の愛媛FCへ入団。
望月一仁監督のもとで、経験豊富なベテランとしてチームを支えた。
内村圭宏、ジョジマール、福田健二、若林学などの相方として非凡なプレーで活躍。
怪我の影響もあり、出場機会は少なかったが、出場した試合では安定した働きで前線の起点となった。

2012年に愛媛FCを退団し現役を引退した。

大木勉の引退後と現在

大木は現役引退後、愛媛日産に就職し、営業として勤務。
地元を盛り上げるために仕事に、サッカーにと忙しい毎日を送っている。

大木は現役時代、決して目立つタイプの選手ではなかったが、どのチームにおいても、コンビを組んだストライカーから絶大な信頼を得ていた。

実際の試合では、運動量は少ないながらも、得点に絡む機会が非常に多く、鮮やかなパスもさることながら、「なぜそこにいる?」といった場面も少なくなかった。

ベテランの域に達したころには前線からのチェイスの意識も高まり、ショートカウンターで何度もチャンスを作った。

大木勉とコンビを組みたいと思ったストライカーは多かったのではないだろうか。

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