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森崎嘉之の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第400回】

1995年の冬休み。選手権決勝の市立船橋対帝京。
僕はテレビの中のスーパースターにくぎ付けになっていた。

市船の背番号10、森崎嘉之。

頭で2発に右足で1発。決勝の舞台で3度もゴールネットを揺らした男のゴールは、どれもワンタッチで合わせたストライカーらしいシンプルなゴールだった。

ゴール後は涼しい顔でスタンドを指さし、前方宙返りを決めて見せる。満員のスタンドからは黄色い声援が飛び、この試合をきっかけに森崎に対する注目度は一気に過熱していく。

抜群のサッカーセンスとスター性を兼ねそろえた森崎嘉之に、誰もが将来のJリーグでの活躍を期待した。

森崎嘉之のJリーグ入り前

森崎は1976年に千葉県に生まれた。

朝日ヶ丘小学校4年生の時に、兄の影響でサッカーを始め、「朝日ヶ丘にれの木SC」に入団する。小学校時代はチームで一番身長が高かった森崎は、この頃からチームの得点源として活躍する。

朝日ヶ丘中学校入学後、サッカー部で活躍。中学3年次に千葉県大会で3位に入る。
中学時代から帝京高校や市立船橋との練習試合を経験した。

中学卒業後、市立船橋高校へ進学。同級生に茶野隆行(ジェフユナイテッド市原)、鈴木和裕(ジェフユナイテッド市原)、1学年上に秋葉忠宏(ジェフユナイテッド市原)、1学年下に式田高義(ジェフユナイテッド市原)、城定信次(浦和レッズ)、砂川誠(柏レイソル)、鈴木正人(湘南ベルマーレ)、2学年下に北嶋秀朗(柏レイソル)がいる。

森崎は高校1年次から背番号13与えられ出場の機会を得る。
1年次の選手権は準々決勝で敗退するが、インターハイには千葉県代表で出場。
準決勝の国見との対戦では貴重な決勝ゴールをマークし、決勝進出に貢献。
決勝では徳島市立高校に0-1で敗れ、準優勝となっている。

高校2年次から2年連続で選手権に出場。2年次は初戦で大阪府代表の高槻南に敗れるも、3年次に出場した選手権では背番号10を背負い、市船のセンターフォワードとして活躍。

1回戦の熊本農業戦から準々決勝の宮崎工業戦まで毎試合ゴールを奪う活躍を見せた。
決勝戦は熱田眞(京都サンガ)、河瀬成二(ヴィッセル神戸)、江田広(川崎フロンターレ)らをようする帝京と対戦するも、森崎は高校生離れのフィジカルと天性の得点感覚で圧倒的な違いを見せつけ、3点を挙げる活躍を見せる。
試合も5-0の大勝で選手権の優勝を決め、大会得点王となった。

その後、森崎は今大会の優秀選手として日本高校選抜に選出。
安永聡太郎(横浜マリノス)、佐藤由紀彦(清水エスパルス)、楢崎正剛(横浜フリューゲルス)、松田直樹(横浜マリノス)、波戸康広( 横浜フリューゲルス)らとともに、FCバルセロナユースと対戦した。(試合は0-0での引き分けとなった)

選手権の活躍でこの世代の最大の注目選手として脚光を浴びた森崎は、満を持して地元のジェフ市原に入団する。

森崎嘉之のJリーグ入り後

大きな期待を集めて入団した森崎だったが、1995年の入団1年目は、出場機会が0に終わる。
市船のチームメイトで同期入団の鈴木和裕、茶野隆行は積極的に起用され、1年目からレギュラーとして活躍した。

1996年もリーグ戦の出場機会はなく、1996年6月1日のナビスコカップアビスパ福岡戦で後半41分に廣山望と交代で公式戦出場。
その後もナビスコのセレッソ大阪戦、名古屋グランパス戦にベンチ入りするも出場機会はなかった。
この年、森崎は僅か出場時間4分という成績でジェフを退団する。

1997年3月には、JFLの水戸ホーリーホックへ移籍。
ガソリンスタンドで勤務しながらプレーを続け、数試合の出場のみで水戸を退団。

1997月9月には関東リーグの横河電機サッカー部へ移籍。
2年間プレーをするが、22歳で現役を引退することを決意した。

森崎嘉之の引退後と現在

森崎は引退後、中古車販売業に転職。

その後はサッカー界に復帰し、市船の後輩である式田高義が代表を務めるサッカースクール「ジョカーレフットボールクラブ」でコーチを務めた。

現在は「ドリームサッカースクール」を立ち上げ、代表として子供たちへの指導を行っている。

1995年の高校サッカーにおいてのスターは紛れもなく森崎嘉之だった。
私が思うに、森崎はクラシックなストライカーすぎたが故にプロでは大成できなかったのではないかと思う。

強いシュートや天性の得点感覚があり、フィジカルもプロで全く通用しなかったとは思わない。
しかし森崎には、それだけではなくオフザボールの動きだったり、前線からの激しいチェイシングを求められた。
結局、あれこれとやっている間にスタミナがなくなり、能力を発揮する前に疲れ果てていたと、森崎は後年のインタビューで語っている。

もっと他の「強み」をもつ森崎にとっては、それを受け入れるのが難しかったのではないか。
自分が絶対的に自信を持っている武器を磨き、そこで勝負がしたいという思いが根底にずっとあったのではないかと思う。

結果として、高校サッカーのスーパースターはたった2年でJリーグを追われ、10年もの間サッカーから離れることになる。
もし森崎の強烈な個性を認めて、それを伸ばせる指導者と巡り合うことができていたならば、違った道もあったのではないだろうか。

確かに現代サッカーは走ることが当たり前だし、FWは点を取ることだけが仕事ではない。プロとして大成できなかったのは彼自身のメンタル的な未熟さもあっただろう。
しかし、ウィークポイントを克服すればいいというわけではないし、それによって良さが消されてしまう選手もいる。

いずれにしろ、たった2年でJリーグを離れなければいけない選手ではなかったと今でも思っている。
大舞台になればなるほど力を発揮するタイプの選手であったのは間違いないのだから。

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