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田中誠の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第236回】

田中誠はDFに必要な能力を全て兼ね揃えた選手である。

その中でも直ちにスペースを埋めるカバーリング能力、相手の動きを予測しラインを巧みにコントロールする能力はリーグ屈指のレベルにあった。

田中誠はジュビロ磐田黄金期の不動のDFリーダーとして君臨し数々のリーグタイトル獲得に貢献。

日本代表としても32試合に出場しジーコ監督から厚い信頼を得るも、2006年のワールドカップ直前に無念の怪我での離脱を経験した。

後に日本代表監督となるイヴィツァ・オシムは、2006年のドイツワールドカップ前に田中誠について、「ジーコ監督が抱えるDFの中で最高の選手である」と評している。

もし、田中誠が離脱しなければ日本には別の戦い方があったのではないか。田中誠のクレバーなDF能力は、我々にそんな想像をさせる程に安心感があった。

田中誠のJリーグ入り前


田中誠は1975年に静岡県清水市に生まれた。

小学1年生からサッカーを始め、後に地区の選抜チームである清水FCに所属。この頃のポジションはFWであった。

小学生の頃からドリブルテクニックに長けており他の選手を圧倒していたという。6年生の時に出場した全日本少年サッカー大会では優勝に貢献、田中自身も得点王に選ばれる活躍を見せた。

小学校卒業後、静岡市立清水第二中学校へ進学。ここで田中はDFに転向する。

中学校卒業後、サッカー強豪校である清水市立商業高等学校(現清水桜が丘)へ入学。同級生には川口能活、鈴木悟がおり1学年下には安永聡太郎佐藤由紀彦がいた。

田中は高校3年時に全国高等学校サッカー選手権大会に出場。背番号5を背負い大会屈指のスイーパーとして清水商業の鉄壁な守備陣をまとめた。

準決勝で城彰二、遠藤彰弘擁する鹿児島実業を2-2からのPK戦の末に破ると決勝では船越優蔵擁する国見高校を2-1で破り全国優勝を果たした。この年、清水商業は高円宮杯全日本ユース選手権でも優勝を果たし、田中はユース日本代表にも選出された。

高校卒業後、田中は1994年にジュビロ磐田へ入団する。同期入団には共にアトランタオリンピックを戦う事になる松原良香がいる。

田中誠のJリーグ入り後

ジュビロに入団した田中は1994年6月8日1stステージ第20節ベルマーレ平塚戦でJリーグデビューを飾る。しかし入団1年目はリーグ戦6試合の出場に留まる。

当時のジュビロ磐田監督であるハンス・オフトは、田中を対人能力の低さや経験の浅さからレギュラーに選ぶことはなかった。

しかし年代別代表ではDFの要として活躍。1995年のワールドユースでは守備の中核を担う活躍を見せたが負傷により本大会への出場は叶わなかった。

1996年のアトランタオリンピックでは本大会メンバーに選出。松田直樹鈴木秀人と3バックを形成。田中はDFリーダーとして統率した。グループリーグ初戦ではリバウド、ベベット、ジュニーニョ・パウリスタ、ロナウドなど強力な攻撃陣擁するブラジルを無失点に封じ込み、歴史的勝利の立役者となった。

しかし2戦目のナイジェリア戦で負傷し途中交代を余儀なくされ、田中を欠いた日本はこの試合に0-2で敗れた。次戦のハンガリー戦に勝利したものの日本はグループリーグ敗退となった。

1997年序盤はベンチスタートが多かったが徐々に出場機会が増える。落ち着いたDFと危険なスペースを瞬時に埋めるカバーリング能力が発揮されその後スタメンに定着。ジュビロ磐田のDFリーダーとしてチームを牽引した。

1998年、チームの1stステージ優勝に貢献。自身も初のベストイレブンにも選出されるなど活躍。1999年アジアクラブ選手権優勝、2002年1stステージ2ndステージ優勝など数々のタイトル獲得にも大きく貢献。2002年には2度目のベストイレブンに選出されチームとしても個人としても活躍した。この年、初めて日本代表に招集を受ける。

2004年になり、2年後のワールドカップ出場に向けてジーコ監督から高い評価を受けていた田中はレギュラーに抜擢される。キャプテン宮本恒靖、中澤佑二とセンターバックを組んだ。高めに位置する右サイドバックの加地亮の裏のスペースを上手く消し、この年のアジアカップでは日本の優勝に貢献した。

その後もストッパーとして安定したプレーを見せ、2006年ワールドカップドイツ大会のメンバーに選出。しかし、田中はワールドカップ直前合宿で左ハムストリング肉離れを起こしてしまう。田中はチームを離脱し帰国。田中の代わりに茂庭照幸が急遽登録される事になった。

ジュビロ磐田では2008年、リーグ戦26試合に出場したが若返りを図りたいチームの方針から戦力外通告を受け15年在籍したジュビロ磐田を退団。

2009年にJ2のアビスパ福岡へ移籍。

田中は主に左のセンターバックを担当。J2リーグ初挑戦ながらも奮闘し、2010年はリーグ戦30試合に出場し福岡のJ1昇格に貢献した。

しかしJ2011年シーズンは度重なる怪我の為にリーグ戦7試合の出場に留まる。思うようなプレーが出来なくなったと感じた田中は2011年11月26日、引退を表明。

18年間のプロ生活に別れを告げた。

田中誠の引退後と現在

田中誠は引退後、現役引退後は解説者及び、「サッカースクール SKY」のコーチに就任。
2017年シーズンよりジュビロ磐田のトップチームのコーチに就任している。

田中誠は現役時代、Jリーグを代表するDFだったのは間違いない。

清水商業時代からの盟友、川口能活は田中誠について「キーパーの視界に入ってこないDF」と称している。

キーパーにとっては目の前にスペースがあればあるほどプレーがしやすい。DFとしては少しでも危険なスペースを埋めたいという心理に駆られるがあまりやり過ぎるとキーパーにとってブラインドとなり視界を遮る事になってしまう。

だが、田中にはそれがほとんどなかったと川口は語っている。田中はそれだけGKと意思疎通が取れており、DFの仕事とGKの役割の分担が出来ていたのだろう。試合中に味方の選手に声をかけ、数的有利な状況を作り相手のプレーを限定させる田中の的確なコーチングを見ていても、常に周りの状況が細かく把握出来ているのだろうと感じる。

思えば日本代表の試合を見ていても田中は目立つようなプレーが少なかったように思う。しかしあの時代の日本代表で誰よりもミスが少なかったのも田中だった。

目立たないけれども失点に直結するような場面を事前に作らせないクレバーなプレーをするのが田中誠のディフェンスなのだと思う。

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