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久保山由清の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第205回】

2列目からの飛び出しとスピードに乗ったドリブルでフリューゲルスやエスパルスで活躍した久保山由清。

横浜フリューゲルス時代の1999年元旦の天皇杯決勝では値千金の同点ゴールを決めた事が印象深い。

清水エスパルスでは安永聡太郎とのコンビネーションで得点を量産。豊富な運動量とキレのあるドリブルで清水エスパルスの攻撃を牽引した。

晩年は膝の状態もあり途中出場が増えたが、久保山の前線での精力的な動きは停滞したゲームを活性化させた。

最前線の危険な嗅覚、久保山由清に迫る。

久保山由清のプロ入り前


久保山は1976年に静岡県焼津市に生まれた。

焼津市立東益津小学校に入学後にサッカーを始める。

焼津市立東益津中学校を経て静岡学園高校へ入学。

久保山は1年時からただ1人スタメンに抜擢され、背番号11を背負うと全国高校サッカー選手権静岡県大会で優勝を果たすと静岡学園のベスト8入りに貢献した。

2年時、3年時は同学年の安永聡太郎や佐藤由紀彦擁する清水商業が選手権に出場した為、全国大会への出場は叶わなかったが3年時には静岡県選抜として国体出場を果たしている。

高校卒業後の1995年、横浜フリューゲルスへ入団。

同期入団には楢崎正剛、吉田孝行、波戸康広がいる。

久保山由清のプロ入り後

フリューゲルス入団後、序盤はサテライトでの調整が続いたが、1995年5月13日サントリーシリーズ第16節の柏レイソル戦で三浦淳宏に代わり後半途中からJリーグ初出場を果たす。

第25節のジュビロ磐田戦では前半30分にJリーグ初ゴールとなる貴重な先制点を奪い2-1での勝利に貢献した。

このシーズンの横浜フリューゲルスはエバイール、ジーニョ、前田治らFW陣に加え前園真聖や桂秀樹らアタッカー陣も充実しており、ルーキーの久保山にチャンスは少なくリーグ戦4試合の出場1得点に終わった。

2年目のシーズンはリーグ戦1試合のみ、3年目のシーズンはリーグ戦出場なしと不調に陥る。

4年目のシーズンとなる1998年も、永井秀樹やレディアコフ、大島秀夫の加入もあり序盤はベンチ入り出来ない試合が続いた。

しかし2ndステージ終盤にレギュラーを掴むとレディアコフと息の合った2トップで得点を重ねていく。

まさにこれからといった10月29日、Jリーグ最大の悲劇が起こる。

横浜フリューゲルスと横浜マリノスの合併が発覚したのだ。

フリューゲルスの出資会社の一つであった佐藤工業が本業の経営不振のためクラブ運営からの撤退を表明し、もう一つの出資会社の全日空も赤字に陥っており、単独でクラブを支える余力がなかったことが原因であった。

理事会で合併が承認されるものの、リーグ戦や天皇杯はシーズン途中であり、残りのシーズンも継続して戦う事となった。

合併反対運動も巻き起こり、この合併問題は連日テレビや新聞で取り上げられる社会問題となった。

久保山ら選手達も街頭でサポーターと署名運動に参加。不透明な将来に不安を感じながらも戸惑いの中でプレーを続けた。

そんな中、横浜フリューゲルスは合併問題発覚後にリーグ戦は無傷の4連勝でシーズンを終える。

天皇杯も勝ち続け、久保山は準々決勝のジュビロ磐田戦でゴールを決め勝利に貢献。遂には決勝の舞台へと駒を進めた。

1999年元日の天皇杯決勝。

久保山は同期入団の吉田孝行と2トップを組んでスタメン出場を果たす。

清水エスパルスの澤登正朗に先制ゴールを許す苦しい展開となるが、前半終了間際に久保山が持ち前の反転の速さを生かし芸術的なターンでゴールを決める。

後半には吉田孝行の右足でのシュートで逆転し、フリューゲルスは天皇杯優勝。有終の美を飾った。

フリューゲルス消滅後、久保山にはマリノスからのオファーがあったが地元の清水エスパルスから熱心な誘いを受け清水エスパルスに入団する。

エスパルスに入団した1999年、久保山はスピードとドリブルを武器にスタメンに定着。
同じくこの年にマリノスから移籍してきた安永聡太郎とのキレのある2トップで得点を量産していく。

遂にはチームトップとなるリーグ戦12得点を挙げ、エスパルスの2ndステージ優勝に大きく貢献。

この活躍によって久保山はこの年のJリーグ優秀選手と日本代表候補に選出されJヴィレッジでの代表トレーニングに参加した。

翌年からもFWや1.5列目、2列目のキーマンとして出場を続ける。2001年11月3日のジェフ戦ではJ1通算7500ゴール目を久保山が決めた。

2000年アジアカップウイナーズカップ優勝、2001年皇杯優勝にも主力として貢献した。

晩年は膝の怪我に悩まされ途中出場も増えたが、久保山のスピードは重宝されコンスタントに出場を続ける。マルキーニョスチョジェジンの1つ後ろからの飛び出しから多くのゴールが生まれた。

2007年、膝の状態が悪化し出場機会が0に終わる。通算200試合を目前に控えての199試合で引退となったが、久保山はそんなところも自分らしくていいと語り、現役生活を終えた。

久保山由清の引退後と現在

久保山は引退後、2008年から清水エスパルスのジュニアユースの監督に就任。

2016年からはトップチームのコーチを務めている。

久保山は現役時代、リーグ戦199試合に出場し34ゴール。カップ戦、天皇杯では59試合に出場し19ゴールを決めた。

FWとしては決して多くはないゴール数だが、天皇杯決勝でのゴールやJリーグ通算メモリアルゴールなど記憶に残るゴールを奪った久保山由清。

パートナーを選ばずに仕事が出来るそのプレースタイルは玄人好みであり、エスパルスの一時代を築いたレジェンドだといえるだろう。

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