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浅利悟の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第62回】

浅利悟は戦術眼に優れ、抜群のポジショニングと豊富な運動量を武器に中盤を駆け回る守備的ボランチだ。

13年間にわたって、FC東京(前東京ガス)でプレーし、社員Jリーガーとして話題になった。

浅利のプレーに派手さはないが、攻守のバランスを取る貴重な舵取り役として安定感と落ち着きを与えた。

ボール奪取後のフィードにも定評があり、何度もFC東京の攻撃を組み立てた。

計算のできる選手、浅利悟に迫る。

浅利悟のプロ入り前


浅利悟は1974年に埼玉県浦和市(現さいたま市)に生まれた。

小学校2年生の時にサッカーを始め、大久保サッカー少年団に在籍する。

浦和市立大久保中学校卒業後、サッカーの古豪である武南高等学校へ進学。

全国高校サッカー選手権には3年連続で出場。

1年次と3年次にベスト4、2年次にベスト8に進出した。

高校では2学年上に木寺浩一、1学年上に上野良治、同級生に浦田尚希、江原淳史、室井市衛、1学年下に斉藤雅人、2学年下に金沢浄、宮沢克行らがおり、武南高の黄金期を支えた一人でもある。

後にJリーグでもチームメイトとなった金沢は高校時代の浅利を「当時は石川直宏タイプの快足ウインガーだった」と壊述している。

1993年に進学した明治大学ではボランチを務めた。

大学卒業後も首都圏でサッカーを続けたいと考えていた浅利は大学卒業後の1997年に東京ガスに入社。

日本サッカーリーグに所属する東京ガスフットボールクラブに入部した浅利は初年度からリーグベストイレブンに入る活躍を見せる。

浅利悟のプロ入り後

1999年、東京ガスはFC東京に名称を改めてJリーグに参入するも東京ガスからの具体的な働きかけが無かったこともあって「グラウンドに立てば同じ」 と、プロ契約を結ばずに東京ガスに籍を置いたまま浅利はプレーをする。

そんな状況のなかでも浅利はFC東京の守備の要としてレギュラーに定着。

2000年、Jリーグ1部(J1)に昇格したチームでは最適の攻守のバランスを見極めるべく、様々なドイスボランチの組み合わせが試されたものの、浅利だけは守備の要として固定されレギュラーを確保した。

浅利はその後も毎シーズン、新選手の補強に強い危機感を抱きながらも挑戦者として改めてポジション争いに挑んだ。

そして控え組に回されても先頭に立って努力を続け、出場機会を勝ち取った。

特に2004年は浅利と同様に守備を得意とするMF今野泰幸が加入し競争が激化したが、当時のFC東京監督である原博実氏が今野の攻撃センスを見出したことも奏功して浅利・今野でドイスボランチが組まれ、原氏からは「今野がチームに馴染んだのは浅利が後ろでどっしりと構えてくれたおかげ」と賛辞された。

しかし2004年に浅利は右膝半月板損傷という大怪我を負い、手術を行う。

手術後もリハビリやトレーニングに意欲的に取り組むも今野や梶山陽平の台頭によりレギュラー獲得までは至らなかった。

しかし浅利はその後もFC東京でプレーし、2008年には再びレギュラーを獲得する。

浅利は既にベテランの域に達していたが、バイタルエリアをケアする貴重なベテランとしてチームに不可欠な戦力となった。

しかし2009年はアキレス腱の怪我や米本拓司などの若手の成長もあり、浅利の出場機会は激減。

出場試合は入団後過去最少となるリーグ戦5試合のみの出場となり、浅利はこのシーズン限りでユニフォームを脱ぐことになった。

浅利悟の引退後と現在

浅利は引退後、2010年からFC東京の広報部に所属。

現在はFC東京の育成部に在籍し、若い世代の育成に精を出す毎日を送る。

プロとはいったい何なのか。

社員Jリーガーとして一流クラブの主力として長くプレーした浅利悟という選手もいれば、高卒でプロ契約を結ぶも早々に戦力外通告を受け、20歳そこそこでサッカーそのものから離れざるを得ない選手も大勢いる。

サッカー選手としての生き方はひとつではない。

しかしタイミングやトレンドもあり、選手にとってサッカーで生きていく為の選択肢は限りなく自由なようでいて、実際は選びようがないほど限られているように思う。

そのような中、浅利悟の生き方という選択肢は決して過去のものではないし、むしろ今後も増え続けるであろう日本のプロチームとプロ選手において、積極的に考えていきたい選択肢のひとつのように感じる。

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