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藤田俊哉の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第503回】

日本代表で背番号10を背負った名波浩は、高校時代に出会った藤田俊哉に対してこう思ったという。

「これから先、僕がどんなに上手くなろうとも彼より上手くなることはないだろう。」

藤田俊哉はMFながら卓越した得点感覚を持っており、豊富な運動量と優れた判断力から繰り出されるプレーは多くのファンを魅了した。

幼少期から全国制覇を経験し、世代屈指の司令塔としてジュビロ磐田へ入団。
ジュビロ磐田では固定制番号以降初代の10番を背負い、数々のタイトル獲得の原動力となった。

日本代表としても背番号10を背負い、加茂周、トルシエ、ジーコから招集を受けた。

Jリーグでは通算498試合で106ゴールをマーク。まさに藤田俊哉はJリーグ史を代表する攻撃的MFだ。

藤田俊哉のJリーグ入り前


藤田は1981年に静岡県静岡市清水区に生まれた。

三保第一小学校入学後にサッカーを始める。
同学年に岩崎泰之、1学年上に三浦文丈がいる。

小学校上級生になると、静岡の選抜チームである清水FCに選出され、第7回全日本少年サッカー大会で優勝を果たす。
当時のチームメイトに三浦文丈相馬直樹らがいる。

小学校卒業後、清水第五中学校へ進学。
藤田はゲームメーカーとしてチームを牽引し、全国中学校大会で準優勝を経験した。
中学2年次にはジュニアユース日本代表に選出され、永井秀樹、遠藤昌浩らとともにアジアJrユース選手権へ出場した。

中学校卒業後、名門の清水商業高校(現・清水桜が丘高校)へ進学。
同学年に岩崎泰之(ジュビロ磐田)、1学年上に三浦文丈(横浜マリノス)、太田貴光(清水エスパルス)、古賀正人(横浜マリノス)、1学年下に薩川了洋(横浜フリューゲルス)、山田隆裕(横浜マリノス)、大岩剛(名古屋グランパス)、名波浩(ジュビロ磐田)、大石尚哉(ヴェルディ川崎)らがいる。

藤田は1年次からレギュラーとして活躍。
2年次には背番号7を背負い、司令塔としてチームを牽引。
激戦区の静岡ブロック決勝で相馬直樹のいる清水東を延長戦の末に下すと、全国選手権では大滝雅良監督のもとで躍動。
静岡商業は決勝で市立船橋に1-0で勝利し平成最初の王者となった。

3年次には名波浩、望月重良と高校サッカー屈指の中盤を形成。
選手権には静岡ブロック準決勝で清水東に敗れ出場は叶わなかったが、インターハイと全日本ユースでは圧巻の強さを見せ優勝。
藤田はインターハイ、全日本ユースどちらの決勝戦でも得点を挙げ、優勝に貢献した。
同年代屈指の司令塔として活躍した藤田は高校選抜に選出され、海外遠征を経験した。

藤田は高校卒業後、筑波大学に進学。
同学年に服部浩紀(横浜フリューゲルス)、岡島清延(浦和レッズ)、辛島啓珠(ガンバ大阪)、山田栄一郎(横浜マリノス)、木山隆之(ガンバ大阪)。
1学年上に三浦文丈(横浜マリノス)、大神友明(ジュビロ磐田)、1学年下に大石尚哉(ヴェルディ川崎)、大岩剛(名古屋グランパス)、2学年下に望月重良(名古屋グランパス)、上野優作(アビスパ福岡)らがいる。

筑波大学では総理大臣杯優勝、関東1部リーグ2連覇に貢献。
関東1部リーグでは3年次から2年連続で大会最優秀選手に選出された。

大学3年次にはバルセロナオリンピック出場を目指す日本代表に選出。
澤登正朗や名波浩、名良橋晃らとともにアジア予選に出場。藤田は香港戦でゴールを挙げるなどし1次予選突破に貢献するも、最終予選ではわずか1勝しかできず本大会出場はならなかった。

大学卒業後の1994年、数あるオファーの中から地元のジュビロ磐田へ入団する。

藤田俊哉のJリーグ入り後


藤田は入団1年目の1994年3月12日、鹿島アントラーズとの開幕戦でJリーグデビューを果たした。
この年からレギュラーとして活躍し、リーグ戦38試合に出場、7ゴールをマークした。

1995年には名波浩とゲームメイクを担い、中山雅史、スキラッチというJリーグ屈指のFWの後ろでプレー。
リーグ戦49試合に出場し11ゴールをマーク。リーグ優秀選手に選出された。
同年、日本代表に初招集され、2月23日の中国戦で代表デビュー。
前園真聖山口素弘森保一とともに中盤を形成し、前半15分に代表初ゴールを決め、2-1での勝利に貢献した。
しかし同年のキングスカップで負傷し、その後は加茂監督から招集されることはなかった。

1997年からは背番号10を背負い、1998年はリーグ戦33試合で17ゴールをマーク。
1stステージを優勝し、MFながら得点ランキング8位に入るなど藤田にとって大きな飛躍を遂げた1年となった。

2001年にはリーグ戦26試合で11ゴールを決め、Jリーグベストイレブンに選出され、Jリーグ最優秀選手となった。
2002年にも2年連続で2桁得点をマークし、この年もJリーグベストイレブンに選出された。

ジュビロ磐田ではステージ優勝6回、年間優勝3回、アジアクラブ選手権優勝1回という磐田黄金時代を作り上げる。
藤田は最強といわれたチームの中心選手として長きに渡って活躍した。

2003年、自身初なる海外移籍を実現。
オランダ1部リーグのFCユトレヒトへ半年間のレンタル移籍を果たした。
ユトレヒトでは14試合で1ゴールを決め、存在感を見せる。チームからは延長の打診もあったが、半年でジュビロに復帰した。
同年、4年ぶりに日本代表に復帰。2004年にはコンスタントに招集され、この年だけで代表戦10試合に出場。
しかし海外組を重宝するジーコ監督のもとでレギュラーには定着できず、2005年1月の代表戦を最後に招集されることはなかった。

2005年シーズン途中に名古屋グランパスへ移籍。
背番号10を背負い、中村直志や同時期に入団した本田圭佑とともに中盤を支える。
名古屋では得点数は減ったものの、豊富な運動量とパスセンスは相変わらずであり、攻撃の中心となり続けた。

2007年には前人未到のリーグ戦400試合出場の偉業を達成した。またMFとしてはJ1史上初となる通算100ゴールを達成する。

2009年にはJ2のロアッソ熊本へ移籍。
キャプテンとして若いチームをまとめ、加入初年からリーグ戦49試合に出場した。
しかし2010年は先発での出場が減り、リーグ戦25試合の出場に留まりこの年で熊本を退団。

2011年にはJ2ジェフ千葉へ移籍。40歳での移籍だった。
ジェフではこれまでの経験を生かしたプレーが期待されたが、出場機会は少なくリーグ戦4試合の出場に留まるとこの年をもって現役を引退した。

藤田俊哉の引退後と現在


藤田は現役引退後、S級ライセンスを取得し、オランダに渡る。

2014年からオランダ2部リーグのVVVフェンローのコーチに就任。
2017年には2部リーグで優勝を果たし、1部昇格を経験。

VVVフェンローのコーチを退任後は、1997年にイングランド2部リーグのリーズ・ユナイテッドFCの強化部に就任。

2018年に日本サッカー協会入りし、2022年からはジュビロ磐田のスポーツダイレクターとして活動している。

Jリーグでは十分な実績を残した藤田俊哉だが、日本代表としては1995年から2005年に渡って招集されるも通算24試合の出場で3ゴールに留まり、ワールドカップへの出場は叶わなかった。
藤田の能力からすれば物足りない数字に映る。

1995年に加茂監督から司令塔の位置を任されるもキングスカップの初戦であるタイ戦で重傷を負い、その後の招集は見送られた。

1999年はトルシエ監督により招集されコパアメリカへ出場するも、1勝もできずに敗退。
この惨敗を受けてトルシエは世代交代の推進。当時27歳の藤田はその波に巻き込まれる形となった。

2003年には32歳での海外移籍を実現。かねてより海外組を重宝していたジーコ監督から招集を受け、実に4年ぶりに代表に復帰。
その後はコンスタントに出場するも、国内組で挑んだ2005年1月29日のカザフスタン戦を最後に招集されることはなかった。

1995年当時、ゲームも組み立てられてゴールも決められるMF藤田はセントラルMF、いわゆる司令塔のポジションで起用された。
藤田俊哉の最大の持ち味はゴール前での動きでありトップ下が最も生きると思っているが、当時のセントラルMFにはゲームメーカー的な役割が強く求められた。
攻守に渡って激しい運動量が求められた藤田は、その魅力を十分に発揮できたとは言い難い。

トップ下というポジションが今でこそ主流になってはいるが、1990年代の日本にはそのポジションが定着していなかったのも理由の一つに挙げられる。
もし藤田俊哉が10年遅く生まれていたら、日本代表に必要不可欠な存在となっていたのではないだろうか。

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