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増嶋竜也の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第504回】

クレバーな守備と強靭なフィジカルを武器にセンターバックやサイドバックとして活躍したDF増嶋竜也。
空中戦も強く、守備だけでなく、セットプレーでは得点能力の高さも光る。

市立船橋高校時代は選手権、全日本ユース、高円宮杯で優勝を経験。高校サッカー界ナンバーワンDFとして名を馳せた。

年代別日本代表のキャプテンとしても活躍し、2004年ワールドユースに出場しベスト16入りに貢献。

京都サンガ在籍時にはロングスローを習得。その後に在籍した柏、仙台、千葉では貴重な得点源のひとつとなった。

増嶋竜也のJリーグ入り前


増島は1985年に千葉県千葉市に生まれた。

千葉市立生浜西小学校に入学後、2年生の時に兄の影響でサッカーを始める。
当時はFWとしてプレーしており、小学校6年生の時には関東選抜に選出された。

中学校ではジュニアユースでサッカーを続けることを希望していたが、ジェフ市原のジュニアユースのセレクションに落ちる。
地元の千葉市立生浜中学校に進み、サッカー部に所属した。
中学校時代も引き続き関東選抜に選出された。

卒業後は名門の市立船橋高校への進学を希望し、セレクションを受けるも不合格。
一般入試で入学した。
同学年にカレン・ロバート(ジュビロ磐田)、高橋昌大(水戸ホーリーホック)、鈴木修人(鹿島アントラーズ)、石井秀典(モンテディオ山形)、佐藤優也(ヴァンフォーレ甲府)。
1学年上には小宮山尊信(横浜F・マリノス)、小川佳純(名古屋グランパス)、青木良太(ガンバ大阪)、大久保裕樹(サンフレッチェ広島)。
1学年下には中林洋次(サガン鳥栖)、渡辺広大(ベガルタ仙台)がいる。

市船に入学後もFWとしてプレーしていたが、1年次に布啓一郎監督によりDFにコンバートされる。
2年次には青木良太、小宮山尊信、大久保裕樹と4バックを形成。
選手権では1回戦の一条高校に1失点したものの、続く試合は全試合無失点に抑える活躍を見せ、決勝で巻佑樹、柴崎晃誠、渡邉大剛のいる国見を1-0で下し優勝を果たした。

3年次にはキャプテンとしてチームを牽引。
インターハイでは準決勝で国見に0-1で敗れたものの、全日本ユースでは静岡学園を1-0で下し優勝。
選手権では伊野波雅彦のいる鹿児島実業と準々決勝で対戦し、PK戦の末に惜しくも敗れた。

高校3年次に出場した高円宮杯で優勝し出場した天皇杯では、3回戦まで進出し横浜Fマリノスと対戦。
前半5分、6分とセットプレーから立て続けに失点するも、後半24分にマリノスGK下川健一がファンブルしたボールを増島が冷静に反撃ののろしを上げる。
マリノスの猛攻をしのぎ、迎えた後半39分にカレンロバートがドリブルで3人を抜き去り、ゴール前の田中恒太に合わせて同点に追いついた。
しかし終了間際に増島が2枚目の警告で退場。延長戦でも決着がつかずPK戦にもつれ込むが、最後はマリノスが接戦を制した。
市船は敗れはしたものの、高校生がJリーグチームを相手にギリギリまで追い詰めたこの試合は語り草となっている。

増島は高校サッカー界屈指のセンターバックとして年代別日本代表に選出された。
高校3年次にはU-18日本代表として数々の国際大会に出場し優勝を経験。

高校卒業後の2004年、10チームからオファーを受ける中、FC東京に入団する。
同期入団に梶山陽平(FC東京U-18)、李忠成(FC東京U-18)、呉章銀(オジョンウン)(FC東京U-18)、中村亮(鹿屋体育大学)がいる。

増嶋竜也のJリーグ入り後


高卒ルーキーながら背番号5を与えられた増島は、2004年3月13日の開幕戦アルビレックス新潟との試合でルーカスと交代で終了間際に出場し、Jリーグデビューを果たした。
しかし同年はフィジカルの強い茂庭照幸、絶対的な高さを持つジャーンといったセンターバックの牙城は崩せずリーグ戦7試合の出場に留まった。
この年はU-19日本代表に選出され、キャプテンとしてAFCユース選手権に出場。
グループリーグを無失点で勝ち抜くも準決勝で韓国にPK戦の末に敗れた。
3位決定戦ではシリアをPK戦の末に辛くも下し、翌年のワールドユースの出場権を獲得した。

2005年はリーグ戦4試合の出場に留まるも、ワールドユースにキャプテンとして出場。
平山相太前田俊介、水野晃樹とともに躍動しグループリーグを突破するも決勝トーナメント1回戦でモロッコに0-1で敗れている。

2006年はリーグ戦14試合に出場。第4節マリノス戦ではJリーグ初ゴールをマークするもレギュラー獲得までは至らなかった。

2007年は出場機会を求め、J1ヴァンフォーレ甲府へ移籍。
大木武監督のもとで開幕戦から出場。セットプレーでも強さを見せ、キャリアハイとなるリーグ4ゴールを決める活躍を見せた。
しかしチームは前半戦の取りこぼしが響き、J2に降格した。

2008年には京都サンガへ移籍。
京都では手島和希とのコンビで最終ラインを形成し、加入初年度にはリーグ戦32試合に出場。
またセンターバックとしてだけでなく右サイドバックとしてもプレー。
2009年には完全移籍で加入。秋田豊森岡隆三といった日本代表のセンターバックから多くを学び、増島は新たな武器としてロングスローを習得した。

2011年には柏レイソルへ移籍。
レイソルではセンターバックやサイドバックとして活躍し、レイソルのJ1初優勝に大きく貢献。
2012年には近藤直也や那須大亮とともに最終ラインを形成しリーグ戦30試合に出場し4ゴールをマークした。

柏では順調にキャリアを積んでいたが、2015年3月に左膝前十字靭帯を損傷。
全治7ヶ月と診断され残りのシーズンをリハビリに費やした。

2017年にはベガルタ仙台へレンタル移籍。
ベガルタではサイドバックとして活躍し、第32節大宮アルディージャ戦では貴重な先制ゴールをマークし勝利に貢献。
リーグ戦22試合に出場し1ゴールの成績を収めた。

2018年にはレンタル移籍でJ2ジェフ千葉へ移籍。
レイソルでともにプレーした近藤直也と最終ラインを形成し、センターバックとして活躍。
2019年には不動のレギュラーとしてリーグ戦31試合に出場した。
2020年は出場機会に恵まれず、リーグ戦18試合の出場に留まると同年に35歳で現役を引退した。

増嶋竜也の引退後と現在


増島は引退後、YouTuberとして活動しながら母校である市立船橋高校サッカー部のコーチや東京都社会人サッカーリーグ1部のSHIBUYA CITY FCの監督として活躍している。

また、未所属Jリーガーのチーム探しを支援するプロジェクト「#Reback」を始動。
3週間のトレーニングキャンプを行い、トレーニングマッチを開催し選手たちが再びJの舞台へ戻るための場を作る活動を続けている。

「このプロジェクトをサッカー人生の大きな分岐点にしてほしい」と語る増嶋竜也。
協会からの支援は無く、独自にクラウドファンディングで資金を募り続けているこの活動は大きな注目を集めている。

毎年多くの選手たちが入団し、そして去っていくJリーグ。
所属先を失った大勢の選手たちにとって最後にアピールできる場が、合同トライアウトの急造チームで行う25分×2本の試合だけでは厳しい。

多くの人たちに夢や希望を与えるJリーガーたちに再び戦える場を与えるために、増島は活動を続けている。

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