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ジャーンの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第502回】

対人の強さ、空中戦の強さを持つ屈強なセンターバック、ジャーン。

2002年に来日後、FC東京で5シーズン、湘南ベルマーレで4シーズンプレーした。
FC東京では茂庭照幸と、湘南ベルマーレでは斉藤俊秀との安定したコンビネーションで最終ラインを支えた。

在籍した両チームではキャプテンを務め、精神的支柱としても大きな役割を果たした。

2004年には堅守を築いたFC東京の中心選手として評され、Jリーグ優秀選手賞を受賞。

ジャーンのJリーグ入り前


ジャーンは1977年にブラジルのサンタカタリーナ州に生まれた。

7歳の時にサッカーを始め、15歳の時にサントスFCの下部組織であるジュベニールに入団する。

17歳の時にトップチームに昇格。
ルーキーながら出場機会を掴み、同年のカンピオナート・ブラジレイロ(全国選手権)準優勝に貢献。
サントスではDFロナウド(清水エスパルス)、ミューレル(柏レイソル)、マルコス・アスンソン、アンデルソン・リマ(アルビレックス新潟)といった選手たちとともにプレーした。

1996年にはU-20ブラジル代表に選出され、翌年のワールドユースに出場。
ワールドユースでは決勝トーナメント初戦でベルギー代表に10-0で勝利するも続くアルゼンチン戦で0-2で敗れ、ベスト8で敗退となった。

1999年にはU-22ブラジル代表としてオリンピック予選を戦うも、翌年のシドニーオリンピック代表からは漏れている。

2000年はECバイーアへ移籍。
後にベガルタ仙台でプレーするFWマルコスやブラジル代表として活躍するダニエウ・アウヴェスとともにプレー。

2002年、ECバイーアからFC東京へ移籍。ジャーンにとって初めての国外移籍となった。

ジャーンのJリーグ入り後


ジャーンは2002年3月2日開幕戦鹿島アントラーズとの試合でJリーグデビューを果たす。
当初は伊藤哲也藤山竜仁とコンビを組むことが多かったが、シーズン終盤には茂庭照幸とのコンビに落ち着き、リーグ戦27試合に出場した。

2003年は不動のセンターバックとしてFC東京のDFラインを統率。
2ndステージ開幕戦のセレッソ大阪との試合以外、全試合に出場を果たす。

2004年はリーグ戦だけでなくヤマザキナビスコカップでも主力として活躍。
ヤマザキナビスコカップでは準々決勝のガンバ大阪戦、準決勝の東京ヴェルディ戦でゴールをマークし勝利に貢献。
決勝の浦和レッズ戦では前半に警告2枚で退場をしてしまうが、チームは集中を切らさず0-0のままPK戦に持ち込み劇的勝利。FC東京は初タイトルを獲得した。
FC東京はこの年のリーグ戦で8位となるも、失点数は上位陣に引けをとらない堅守を見せ、守備の中心として活躍したジャーンはこの年のJリーグ優秀選手賞を受賞した。

2005年はリーグ戦全試合に出場。
2006年は序盤は欠場するも第3節から先発に名を連ねる。
安定した守備を見せるも、増嶋竜也や伊野波雅彦の台頭もあり、出場機会はリーグ戦25試合に留まった。

2007年はJ2の湘南ベルマーレへ移籍。
移籍初年度からキャプテンを務め、開幕戦から奮闘。
サントスFCでともにプレーしたMFアジエルとは公私共に相性がよく、湘南では4年間ともにプレーした。
同年はシーズン中に足首の故障で離脱したこともあり、リーグ戦37試合の出場に留まった。

2008年は前年から引き続き元日本代表DF斉藤俊秀との息の合ったコンビで堅守を築く。
しかし、このシーズンは膝の故障に悩まされJリーグ入り後最低となるリーグ戦23試合の出場に留まる。

2009年は村松大輔とのコンビでリーグ戦49試合に出場。
ベルマーレは開幕5連勝でスタートダッシュに成功し、最終節水戸戦で勝利し3位が確定。
ジャーンは11年ぶりのJ1復帰の立役者となった。

2010年は前年から引き続き村松大輔と共に最終ラインを守るも、4月に右足首の疲労骨折で戦線を離脱。
7月に復帰を果たすも、シーズン中盤に再度負傷。その後リハビリに努めるも、回復が思わしくなくシーズン途中の11月に退団することになった。

ブラジルに帰国後、怪我から回復したジャーンは移籍先を模索するも所属先が決まらず現役を引退することになった。

ジャーンの引退後と現在

ジャーンは現役引退後、ブラジルに帰国し実業家、代理人として活躍している。

日本との関係も続いており、代理人としてブルーノ・メンデス(セレッソ大阪)などの多くの有望なブラジル人選手をJリーグに送り込んでいる。

現役時代、総合力の高いセンターバックであったため、即戦力として加入したFC東京ではすぐに替えがきかない選手となった。

ジャーンは入団後すぐにJリーグに順応しただけではなく、9シーズンに渡って日本でプレーすることになった。
長きに渡って活躍出来たのはセンターバックとしての高い能力だけでなく、その素晴らしい人間性によるものが大きいと思っている。

ジャーンは練習熱心としてだけでなく日本語の習得にも貪欲に取り組んでいた。

ジャーンの優れたキャプテンシーが認められるのに時間はかからず、FC東京ではすぐにキャプテンを務め、移籍した湘南ベルマーレでも加入1年目からキャプテンを任されるほどだった。

2004年、FC東京が初めてタイトルを獲得したヤマザキナビスコカップ。

ジャーンは前半29分に2枚目の警告で退場処分となってしまう。審判に涙を流して判定を取り消すように懇願するが、判定は覆らずにピッチを後にした。

その姿を見てFC東京の選手たちは奮闘し、PK戦での勝利につながるのだが、印象的なのはその後のFC東京の選手たちの言葉だ。

GK土肥洋一は「運動量では大変な面があったが、ジャーンのためにもという気持ちでチーム一丸となれた。」と語り、MF金沢浄は「ジャーンが気持ちを置いていってくれて、気持ちが引き締まった。」と話している。
そして監督の原博実は試合後に「ジャーンを含めて、最後まで全員で戦おうと思っていた。」と語っている。

それまでチームのために戦ってきたジャーンの気持ちは他の選手たちに伝わったのだ。

選手たちはジャーン不在による戦力的な穴埋めをするだけでなく、ジャーンが抱えていた責任を全員で共有し、最後まで全員で戦った。
だからこそあの日、奇跡の勝利が生まれたのだと私は理解している。

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