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遠藤昌浩(雅大)の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第76回】

強烈なタックルと効果的なオーバーラップが持ち味のDF、遠藤昌浩。

1994年アジア大会ではファルカン監督から高く評価され、日本代表の左サイドバックで活躍した。

遠藤は元々FWの選手であったが、1994年のJリーグ昇格後、就任したハンス・オフト監督(元日本代表監督)により左サイドバックにコンバートされた。

ドーハの悲劇で象徴された、日本のウィークポイントであった左サイドバック。

その穴を埋めるべく新たに左サイドバックに抜擢されたのが遠藤昌浩だった。

遠藤昌浩のプロ入り前


遠藤は1970年に東京都に生まれた。

3歳から千葉県船橋市明星幼稚園サッカークラブでサッカーを始めた。

船橋市立習志野台第2小学校を卒業し、船橋市習志野台中学校に進学。

途中、松戸市立新松戸北中学校へ転向するがこの時に全日本ジュニアユースに選出された。

この時、遠藤と共に全日本ジュニアユースに選出された選手の中には菊原志郎、永井秀樹、藤田俊哉、鈴木正治三浦文丈など後のJリーガーが多く存在する。遠藤はFWの選手で選出された。

1986年、東京都の帝京高校へ進学。

遠藤の一つ上に礒貝洋光森山泰行本田泰人、同期に池田伸康、保坂信之がおり、遠藤は上背がありロングキックを蹴れることからボランチなどで起用された。

高校2年次と3年次には2年連続で全国高校サッカー選手権に出場し、ベスト16に入るなど活躍。

高校を卒業後は順天堂大学へ進学。大学2年次には関東リーグ優勝を経験し、3年次から2年連続で関東大学生学生選抜に選出された。

遠藤は大学卒業後、ヤマハ発動機フットボールクラブ(現ジュビロ磐田)へ入団。入団初年度は背番号11を背負い、FWの選手としてリーグ戦5試合に出場した。

ヤマハ発動機は翌年、ジュビロ磐田としてJリーグに参戦する。遠藤は引き続き、ジュビロ磐田でのプレーを選択した。

遠藤昌浩のプロ入り後

遠藤は1994年のJリーグ昇格後、就任したハンス・オフト監督により左サイドバックにコンバートされる。

遠藤はフィジカルコンタクトの強さや、左足から蹴られるフィードやサイドチェンジといった武器が評価され、コンバート間もなくファルカン監督から日本代表に選出された。

代表デビュー戦となったのは1994年のフランス戦。
遠藤は岩本輝雄に代わって出場すると積極的にアピールしてファルカン監督から評価され、この試合以降日本代表の左サイドバックの座に就くことになる。

1994年のアジア大会では不動の左サイドバックとして4試合にフル出場した。

その後、所属チームのジュビロ磐田では左サイドバックを主ポジションとする服部年宏の加入により遠藤はセンターバックとして定着するが、度重なる怪我と田中誠鈴木秀人らの台頭もあり、徐々に出場機会が減少していった。

1999年、当時JFLだった横浜FCへ移籍。キャプテンとしてチームを牽引するが、シーズン途中にヴェルディ川崎へ移籍した。

2000年には清水エスパルス、ベルギーのKVメヘレンでプレー。

遠藤はベルギーリーグでプレーする最初の日本人としてリーグ戦4試合に出場した。

2001年12月、遠藤は遠藤昌浩から遠藤雅大へ改名。

翌年は同じベルギーリーグのラ・ルビエールに移籍するが、チームの経営破綻で遠藤は解雇となり、日本へ帰国。この年限りで現役を引退することになった。

遠藤昌浩の引退後と現在

遠藤は引退後、SKY PERFECT TV!の解説者として、チャンピオンズリーグ、セリエAなど各種番組に出演。

2002年に東京都スポーツ文化事業団スマイルスポーツ教室(遠藤雅大インドアサッカー教室)を開講。

2004年にはESA(遠藤サッカーアカデミー)で青少年へのサッカーの指導を行っている。

遠藤はその他にも講演や全国各地でのサッカー教室など様々な活動を展開している。

遠藤は自身のホームページでサッカーに対してこう語っている。

「サッカーは肉体・精神を育ててくれる教育的要素を持つだけでなく、スポーツを通じて人間社会を学び感じることが出来、もっと言えば国際社会そのものであるとも考えている。」

FWからDFまで経験し、高校、大学、Jリーグ、日本代表、海外リーグと様々なカテゴリーで活躍してきた遠藤の育成に注目が集まる。

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