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木山隆之の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第428回】

フィジカルコンタクトに優れ、対人で強さを発揮したDF木山隆之。

戦術理解度が高く、センターバックやボランチとして守備の要として活躍した。

ガンバ大阪時代は度重なる骨折により苦しんだが、現役晩年に所属した水戸ホーリーホックでは、経験を生かしたDFで最終ラインをまとめた。

木山隆之のJリーグ入り前


木山は1972年に兵庫県伊丹市に生まれた。

小さい時は野球少年であったが、小学校3年生の時にサッカーを始めた。

小学校の時は司令塔タイプの選手であり、攻撃の中心として活躍した。

中学校卒業後、兵庫県立伊丹西高校に進学。
高校2年次に兵庫県選抜として国体に出場。
選手権は、強豪・滝川二高や神戸弘陵の壁を崩せず、出場できなかった。

高校卒業後、筑波大学へ進学。
同学年に辛島啓珠(ガンバ大阪)、岡島清延(浦和レッズ)、服部浩紀(横浜フリューゲルス)、藤田俊哉(ジュビロ磐田)がいる。
1学年上には三浦文丈(横浜マリノス)、大神友明(ジュビロ磐田)、菊原伸郎(浦和レッズ)がいる。

大学時代はセンターバックとして活躍。
総理大臣杯の優勝に貢献し、ユース代表としても活躍した。

1994年、大学卒業後にガンバ大阪に入団する。

木山隆之のJリーグ入り後

即戦力として期待された木山だったが、1994年4月3日のサテライトのベルマーレ平塚戦で接触プレーにより頬骨を骨折した。

しかしフェイスガードを装着してプレーし、1994年4月9日第8節鹿島アントラーズ戦で初めてベンチ入りを果たすと、前半終了間際に石井壮二郎と交代でJリーグデビューを果たした。
筑波大学でコンビを組んでいた辛島啓珠と、Jの舞台でもコンビを組むことになった。

第21節清水エスパルス戦ではJリーグ初ゴールをマーク。
このシーズンはセンターバックやボランチとしてリーグ戦27試合に出場し1ゴールを記録した。

1995年は怪我の為にリーグ戦1試合の出場に留まったが、1996年は開幕の横浜マリノス戦からボランチで出場を続けた。
しかしシーズン中盤からまたもや怪我のために離脱し、このシーズンはリーグ戦12試合の出場となった。

1997年シーズン終了後、Jリーグに昇格したコンサドーレ札幌に移籍。
コンサドーレでは開幕戦で左サイドバックとして出場。
3バックの時は左のセンターバックとして出場したが、シーズン終盤はベンチに回る機会が増え、1年で札幌を退団。

その後、現役続行を希望するが所属チームが見つからず筑波大学で指導者の勉強を始めるも、シーズン途中にJFLの水戸ホーリーホックに入団し現役復帰。

1999年は、札幌で共に最終ラインを形成した渡辺卓とともに、水戸のDFラインをまとめてリーグ戦3位躍進に貢献。
この成績により、水戸の2000年からのJ2昇格が決定した。

2000年は、昇格組ながら木山、渡辺卓、そしてこの年より加入した筑波大、ガンバでともにプレーした辛島啓珠らベテラン勢が粘り強いDFで支えた。

2001年も主力としてチームを支えるも、下位の順位から抜け出すことができなかった。

2002年シーズンはキャリアハイとなるリーグ戦31試合に出場し、デビュー年以来となる得点を決める活躍を見せるも、この年限りで現役を引退した。

木山隆之の引退後と現在

木山は引退後の2003年に母校である筑波大学の監督に就任。

その後。2005年からヴィッセル神戸、水戸ホーリーホック、清水エスパルス、ジェフユナイテッド市原・千葉、愛媛FC、モンテディオ山形、ベガルタ仙台、ガンバ大阪などJクラブの監督、コーチを務めた。

2022年からはファジアーノ岡山で監督を務めている。

2022年はJ1参入プレーオフに進出するなど、躍進を続けた岡山。この躍進は木山の存在無くしては語れないだろう。

2023年は悲願のJ1昇格なるか。

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