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下平隆宏の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第427回】

献身的な守備と豊富な運動量で、中盤の底に君臨したボランチ、下平隆宏。

高校時代は無名の選手であり、美容師の就職が決まっていたが、プロサッカー選手の夢を諦めきれず日立の入団テストを受け入団。

以降、柏レイソルの不動のボランチとして活躍し、1997年はフランスワールドカップを目指す日本代表に選出された。

下平隆宏のJリーグ入り前


下平は1971年に青森県三戸郡五戸町に生まれた。

五戸町立五戸南小学校に入学後、サッカーを始め、五戸南スポーツ少年団に入団する。

地元の強豪である五戸中学校に入学後、サッカー部で活躍。

中学卒業後は青森県立五戸高等学校へ進学した。
同学年に佐藤昌吉(京都パープルサンガ)、4学年上に手倉森浩、手倉森誠(鹿島アントラーズ)がいる。
高校時代は主にトップ下のポジションを担った。

高校1年次に青森県代表として選手権に出場するも1回戦で南宇和にPK戦の末に敗れている。

高校2年次から2年連続でインターハイに出場。

高校3年次には青森県選抜に選出され、国体に出場した。
選手権では1回戦で前園真聖藤山竜仁らのいる鹿児島実業に1-2で敗れた。

高校卒業後は東京都内で美容師の仕事に就く予定であったが、柏レイソルの前身である日立製作所サッカー部のセレクションを受け、合格。
社員選手として入団する。

1990年、入団1年目のシーズンの日立は、JSL2部の所属であったが、格の違いを見せ、シーズンを通して27勝1分2敗という成績で優勝。
特にロペス(後の呂比須ワグナー)とへジスの2トップは協力であり、2人でチームの半分以上の得点数を挙げた。

下平は入団2年目からレギュラーの座を掴。
Jリーグ入りを翌年に控えた1994年には念願のプロ契約を結んだ。

下平隆宏のJリーグ入り後

1995年3月18日開幕戦の清水エスパルス戦でJリーグデビューを果たすと、その後は不動のボランチとしてプレー。
加藤望棚田伸といった攻撃的な中盤の選手の後ろに位置し、攻守に渡って活躍した。

1997年には加茂周監督により日本代表に招集される。
フランスワールドカップアジア地区最終予選を戦うメンバーとして、国立競技場で開催された11月8日カザフスタン戦でベンチ入りをするも出場機会はなかった。
当時の代表のボランチである山口素弘の牙城は崩せず、以降招集されることはなかった。

その後、柏レイソルではキャプテンを務める。
1999年のナビスコカップではセレッソ大阪戦でゴールを決めるなど活躍。
決勝では鹿島アントラーズと激闘の末にPK戦に突入したが、1本目のキッカーとして見事にPKを決め、優勝に貢献した。

2001年にFC東京に移籍。
三浦文丈浅利悟とレギュラーを争う形となったが、2ndステージからは出場機会を増やし、リーグ戦16試合に出場した。

2002年には開幕戦の鹿島アントラーズ戦から先発で出場。第2節浦和レッズ戦では2枚の警告により退場となったが、その後も先発で活躍する。
しかし2ndステージ終盤はベンチに回る機会が増え、この年限りでFC東京を退団した。

2003年に柏レイソルに復帰。
ボランチには明神智和、大谷秀和、萩村滋則らが台頭し、出場機会は多くなかったが、豊富な運動量と堅実な守備でチームを支えた。

2004年シーズン終了後、現役引退を表明。

下平隆宏の引退後と現在

下平は引退後、2005年から指導者としてセカンドキャリアをスタート。

2010年から5年間、柏レイソルU-18の監督を務め、2016年には柏レイソルの監督に就任した。

その後、横浜FCの監督を務め、2022年には大分トリニータの監督となっている。

下平は現役時代、相手選手にとって厄介な存在であった。

常にチームの為に日陰で献身的に戦ってきた下平。

指導者としてトロフィーを掲げる日が来るのが待ち遠しい。

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