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萩村滋則の現役時代、プレースタイルや生い立ちに迫る【第419回】

クレバーな守備と正確なフィードが持ち味のDF萩村滋則。

筑波大学を休学して柏レイソルに入団すると、1年目からリーグ戦全試合に出場し中村俊輔、柳沢敦とともに優秀新人賞を受賞した。

2005年にはナビスコカップ決勝のPKでは、最後のキッカーを見事に決めタイトル奪取に貢献。

本職のセンターバックだけでなく、ボランチやリベロなどをこなし、攻守のキーマンとして活躍した。

萩村滋則のJリーグ入り前


萩村は1976年に三重県に生まれた。

小学校でサッカーを始め、四日市市立西陵中学校に進学しサッカー部で活躍。

中学校卒業後は名門の四日市中央工業へ進学。同級生に若松大樹(清水エスパルス)、坂井浩(ベルマーレ平塚)、1学年上に水原大樹(名古屋グランパス)がいる。

高校入学後は1年次から背番号4を背負い、ストッパーとして活躍。
1年次に出場した選手権ではベスト8まで進むも、石塚啓次のいる山城にPK戦の末に敗れている。

2年次に出場した選手権では1回戦で松商学園を1-0で下すも、2回戦で遠藤彰弘、城彰二のいる鹿児島実業に0-2で敗れた。

3年次にはキャプテンとしてチームを牽引し順調にベスト16入りを果たすも、奈良育英に惜しくもPK戦の末に敗れている。

また1年次から3年連続で三重県選抜に選出され、国体に出場。
インターハイにも2年次から2年連続で出場。ユース代表にも選出されるなど10代から大きな注目を集めた。

高校卒業後、筑波大学に進学。同学年に笠原宗太(水戸ホーリーホック)、1学年上に和多田充寿(ヴィッセル神戸)、1学年下に戸田光洋(FC東京)、井上敦史(コンサドーレ札幌)、西川周吾(水戸ホーリーホック)、冨田大介(水戸ホーリーホック)がいる。

大学では関東リーグで準優勝に貢献し、総理大臣杯、全日本大学サッカー選手権大会でも準優勝に貢献した。
また、U-20日本代表に選ばれ、FIFA ワールドユース選手権(現 FIFA U-20 ワールドカップ)に選出されベスト8入りを果たした。
秋葉忠宏(ジェフ市原)、大森健作(横浜マリノス)、森岡隆三(鹿島アントラーズ)、松田直樹(横浜マリノス)、山田暢久(浦和レッズ)、山西尊裕(ジュビロ磐田)、鈴木和裕(ジェフ市原)とDFのレギュラーを争い、萩村はグループリーグのチリ戦に出場した。

1997年、大学を休学し柏レイソルに入団する。

萩村滋則のJリーグ入り後

大学屈指のセンターバックとしてレイソルに入団した萩村は、1997年4月12日1stステージ第1節清水エスパルス戦で、渡辺毅とセンターバックでコンビを組み、Jリーグデビューを果たした。

この年は新入団ながら全試合に出場し、中村俊輔(横浜マリノス)、 柳沢敦(鹿島アントラーズ)とともに優秀新人賞を受賞した。

1999年は怪我に泣かされながらもリーグ戦17試合に出場。
ヤマザキナビスコカップでは全試合に出場し、決勝の鹿島アントラーズ戦では2-2で延長戦に突入しても決着がつかずPK戦に入る激闘となったが、萩村が5人目のキッカーとしてゴールを決め、タイトル獲得に貢献した。

2000年は完全復活を果たし全試合に出場。またこの頃からセンターバックだけでなくボランチとしても出場を果たす。

2002年には左脛骨疲労骨折という大怪我をするが、2003年に復帰を果たした。

2004年にはJ2の京都サンガへ移籍。
ボランチやセンターバックとしてリーグ戦19試合に出場した。

2005年にはJ1アルビレックス新潟へレンタル移籍。
クレバーな守備でDFラインを支え、リーグ戦28試合に出場した。

2006年にはJ2の東京ヴェルディへ移籍。
ラモス瑠偉監督のもとで守備のキーマンとして重宝された。
開幕戦の徳島ヴォルティス戦ではヴェルディのシーズン初ゴールを決め4-1での勝利に貢献。

2007年には土屋征夫服部年宏、富澤清太郎らとDFラインを組み、東京ヴェルディのJ1復帰に貢献した。

2008年には柱谷哲二が監督に就任。怪我の影響もあり出場機会が激減。得点源であったフッキの退団も響き、1年でJ2へ降格となった。
このシーズンをもって萩村は現役を引退した。

萩村滋則の引退後と現在

萩村は現役引退後、指導者に転身。

2009年から東京ヴェルディでジュニアやジュニアユースの監督を務めた。

2017年はギラヴァンツ北九州のヘッドコーチ、2018年は大分トリニータでコーチを務めた。

2019年には浦和レッズユースのコーチを務め、2023年からは浦和ユースの監督を務めている。

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