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平山智規の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第441回】

柏レイソル一筋で12年間プレーした左サイドのスペシャリスト平山智規。

独特のリズムから繰り出されるドリブルと、精度の高い左足でのキックが大きな魅力。

高校時代は全くの無名選手だったが、テスト入団で柏レイソルに入るとU22代表、フル代表とステップアップしていった。

平山智規のJリーグ入り前


平山は1978年に静岡県浜北市に生まれた。

浜名小学校入学後にサッカーを始め、浜北キッカーズFCに入団する。

名門・東海大学第一中学校に入学後、サッカー部で活躍。
同学年に川島眞也(サンフレッチェ広島)がいる。1学年下に高原直泰(ジュビロ磐田)がいた。
2学年上には佐藤由紀彦(清水エスパルス)がいる。

中学校卒業後、静岡北高等学校へ進学。
同学年に入江徹(柏レイソル)がいる。

高校時代は選手権などの全国大会への出場は叶わなかった。

高校卒業後、入団テストを受け、柏レイソルへ入団。
同期入団に明神智和、根引謙介、砂川誠、入江徹らがいる。

平山智規のJリーグ入り後

1996年、柏レイソルに入団後しばらくはサテライトでの調整が続いたが、同年のヤマザキナビスコカップのガンバ大阪戦で公式戦デビュー。
ベルマーレ平塚戦にも途中出場し、この年は公式戦2試合に出場した。

1997年にはCAジュベントスへの留学を経験する。

1999年5月29日1stステージ第15節ベルマーレ平塚戦で、後半途中に左サイドの片野坂知宏と交代で出場しJリーグ初出場。
後半41分にはJリーグ初ゴールを決め、勝利に貢献した。
2ndステージからは左サイドハーフのレギュラーを獲得。

この活躍を受け、トルシエ監督率いるU-22日本代表に選出。
1999年9月7日に国立競技場で行われたシドニー五輪アジア地区最終予選壮行試合の日本対韓国戦でベンチ入りをすると、後半35分に中村俊輔と交代でピッチに入り4-0での勝利に貢献した。
しかし本戦には、同ポジションのレギュラーである中村俊輔、オーバーエイジ枠で三浦淳宏が選出されたため、選出はならなかった。

同年のヤマザキナビスコカップでは9試合すべてに出場。
準々決勝のジュビロ磐田との試合では決勝ゴールを決めた。
柏レイソルは決勝戦で鹿島アントラーズを下し、優勝を果たした。

2000年以降も不動の左サイドのレギュラーとして活躍。
スピードを生かした縦への突破と正確なクロスは柏の攻撃のオプションとなった。

2003年にはジーコ監督により日本代表に選出される。
2003年5月には東アジア選手権の予備登録メンバーに選出。

8月20日に国立競技場で行われたキリンチャレンジカップのナイジェリア代表との試合で、両大腿肉離れのため不参加となった奥大介の代わりに追加収集されるも出場機会はなかった。

2004年は度重なる怪我のため、リーグ戦5試合の出場に留まる。

2005年には復帰し、開幕戦の川崎フロンターレ戦からスタメンで出場を続け、リーグ戦27試合に出場。
しかし柏レイソルは年間16位に沈み、J1・J2入れ替え戦に回ることになる。
甲府との入れ替え戦では、第1戦はアウェーで1-2、第2戦はホームでバレーにダブルハットトリックを決められるなど2-6と連敗しJ2降格が決まった。

2006年は平山自身初めてのJ2でのシーズンとなったが、左ウイングとして安定したプレーを見せ、1年でのJ1復帰に貢献。

2007年、再びJ1の舞台に戻るも、リーグ戦8試合の出場に留まる。
平山はこの年をもって12年間の現役生活に別れを告げた。

平山智規の引退後と現在

平山は引退後、柏レイソルの下部組織で指導者として活躍。

2020年からは柏レイソルU-12の監督を務めている。

柏レイソル一筋で12年間プレーした平山智規。

怪我に泣かされたシーズンもあったが、2000年代前半のレイソルの左サイドは平山智規の独壇場といえるものであった。

キレのあるドリブルも魅力だが、正確な左足でのプレースキックは当時のレイソルの大きな武器だった。

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