FW

服部浩紀の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【314回】

前線からの激しいチェイシングで、ボールを奪うと貪欲にゴールを狙うFW服部浩紀。

全国高校サッカー選手権に2年連続で出場。筑波大学時代には、大学ナンバーワンストライカーとの呼び声高く、ユニバーシアード日本代表として世界を経験した。

横浜フリューゲルス在籍時代の1997年の1stステージでは11ゴールをマーク。スピードに乗ったドリブル突破からの強烈なシュートは見応え十分で、最前線でフリューゲルスの攻撃陣を牽引した。

その気迫溢れる姿から、『アジアの虎』と呼ばれた服部浩紀に迫る。

服部浩紀のJリーグ入り前


服部は1971年に群馬県前橋市に生まれた。

小学校4年生でサッカーを始め、前橋市立鎌倉中学校に進学後、サッカー部に所属し活躍した。

中学卒業後は前橋商業高校へ進学。 服部の1学年上に後に名古屋グランパスエイトで活躍する米倉誠、服部の1学年下に鳥居塚伸人らがいた。

高校2年時に出場した全国高等学校サッカー選手権大会で、全国ベスト4を経験。準々決勝で強豪・四日市中央工業を3-1で破るも、準決勝で、三浦文丈、名波浩、藤田俊哉、山田隆裕らを擁する清水市商業に1-2で敗れている。

3年時は、大会No.1ストライカーとして注目され激しいマークの中でも結果を残し、大会通算5,000ゴール目を記録した。優勝も期待されたが、またしても準決勝で實好礼忠らを擁する南宇和高校に1-4で敗れ、2年連続でのベスト4となった。

服部は、高校卒業後、筑波大学に進学し蹴球部に入部。 同期の藤田俊哉や、大神友明とともに、関東大学サッカーリーグ戦1部での連覇や、総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント優勝など数々のタイトルを獲得した。

大学時代も「世代ナンバーワンストライカー」と評価する声が多く、ユニバーシアード日本代表に選出され世界大会を経験。

バルセロナ五輪予選では日本代表にも選出。永井秀樹、名波浩、澤登正朗名良橋晃下川健一小村徳男、藤田俊哉らとともに戦い、グループ予選1回戦を突破するも、2回戦では5試合で1勝しか挙げることが出来ず、オリンピック出場を逃している。

しかし服部はこの大会で世界と戦えるストライカーという評価を得る。 1994年、大学卒業後に横浜フリューゲルスへ加入した。

服部浩紀のJリーグ入り後

服部は、前線から激しくボールを奪いにいく闘争心むき出しのプレースタイルで頭角を現わす。

6月15日の第22節清水エスパルス戦では待望のリーグ初ゴールをマーク。ルーキーイヤーながらリーグ戦26試合に出場し1ゴールを決めた。

その後もペナルティエリア内での激しいプレス・チェイシングでフリューゲルスの戦術であるゾーンプレスを体現。
エバイール、ジーニョ、吉田孝行前園真聖らとフリューゲルスの攻撃の一角を担った。

1997年シーズンは、開幕戦から1トップで先発起用されリーグ戦11ゴールをマークした。シーズン途中からはバウベルとの強力な2トップを形成。服部はフリューゲルスの1stシリーズ優勝争いの原動力となった。

しかし1998年は思うように結果を残せず、シーズン途中に当時JFLの川崎フロンターレにレンタル移籍。

この時、横浜フリューゲルスは横浜マリノスとの統合を発表し、事実上「横浜フリューゲルス」は消滅となる。服部は後年、この出来事について「期限付き移籍中だったがあの時のことは忘れられない。」と語っている。

1999年は清水エスパルスへ移籍。しかし、長谷川健太、ファビーニョ、安永聡太郎アレックスらタレント揃いの中で結果を残せず1年で退団。

2000年は、J2のアルビレックス新潟へ活躍の場を求め渡り歩いたが、シーズン途中よりアビスパ福岡に移籍。

アビスパでは、モントーヤ、ビスコンティらとともに迫力ある攻撃を牽引。2002年には背番号8を背負い、リーグ戦4ゴールをマークした。

2003年、サガン鳥栖へ移籍。

背番号9を背負い、ベテランとしてチームを支えるもリーグ戦29試合に出場し2ゴールに終わり、この年限りで32歳で現役を引退した。

服部は、J1リーグ通算158試合出場25得点、J2リーグ通算66試合8得点という記録を残した。

服部浩紀の引退後と現在

服部は、現役引退後、「服部浩紀サッカースクール」を設立し、幼稚園生から中学生までの年代の指導にあたっている。

2015年には、地元群馬のザスパ草津・群馬の監督に就任するも、2016年シーズンをもって監督を退任している。

現在は、ルーヴェン高崎FC U-15の監督として指導を続け、元FC東京のアマラオとタッグを組み、「アジアのトラスクール」として、ストライカー養成スクールも展開している。

アジアの虎の指導を受けた子供たちが、世界を舞台に戦う日が楽しみでならない。

選手一覧