攻撃的なポジションならどこでも高水準でプレーできるマルチプレーヤー松山吉之。
早稲田大学時代に日本代表に選出され、国際Aマッチ9試合で4得点を挙げる活躍をみせた。
Jリーグ創成期はガンバ大阪に所属し、FWやオフェンシブハーフとしてプレー。
現役晩年は京都パープルサンガでボランチを務め、攻守のつなぎ役としてチームを牽引した。
松山吉之のJリーグ入り前
小学校でサッカーを始め、金閣小学校2年生の時に京都紫光クラブに入団した。
衣笠中学校卒業後、京都府立山城高等学校に進学。1学年下に実弟の松山博明(ベルマーレ平塚)、2学年下に奥野僚右(鹿島アントラーズ)がいる。
高校3年次に選手権に出場。初戦で盛岡商業を5-0で、次戦で国学院栃木を2-0で下すも、準々決勝で武南に0-1で敗れ、ベスト8となった。
尚、この大会では実弟の松山博明が5得点を挙げ、大会得点王に輝いている。
高校卒業後、早稲田大学へ進学しア式蹴球部に入部。1学年上に上野展裕(サンフレッチェ広島)、大榎克己(清水エスパルス)、1学年下に実弟の松山博明(ベルマーレ平塚)、山田泰寛(清水エスパルス)がいる。
大学4年次に出場した第37回全日本大学サッカー選手権大会では初戦の福岡大学戦でハットトリックを決めるなど活躍し、大会得点王に輝いている。
また、松山は大学時代にソウルオリンピック出場を目指す日本代表に選出される。1987年4月12日のシンガポール戦でAマッチデビューを果たし、この試合の後半20分にさっそく代表初ゴールを決め1-0での勝利に貢献した。
その後も、武田修宏や都並敏史、加藤久、水沼貴史、越後和男らと代表でプレーし、インドネシア戦やセネガル戦でゴールを決めた。
代表では1989年まで選出され、Cマッチも含めると代表戦30試合に出場し5ゴールを決めている。
松山は早稲田大学卒業後、ジェフ市原の前身である古河電気工業サッカー部に入団する。
古河では清雲栄純監督の元、1年目から即戦力としてレギュラーを務め、攻撃的MFとして活躍した。
1年目はリーグ戦21試合に出場。2年目も21試合に出場し4ゴールを決めた。
1991-1992シーズンは、一時現役を離れ、実家の料亭を手伝っていたが、高校の先輩である釜本邦茂から誘いを受け、ガンバ大阪の前身である松下電器産業サッカー部に入団。
1992年、松下電器は、Jリーグ参入のため、ガンバ大阪に改称。松山はガンバとプロ契約を結んだ。
松山吉之のJリーグ入り後
1992年、Jリーグの開幕前年に開催されたJリーグカップ(第1回ヤマザキナビスコカップ)の第1節横浜マリノス戦で、負傷した礒貝洋光と交代でガンバでのデビューを飾った。
その試合で後半39分に勝利を決定づける2点目を決め。2-0での勝利に貢献している。
続く第2節ジェフ市原戦でもゴールを決め、1-0での勝利に立役者となった。
1993年、Jリーグが開幕。開幕戦の浦和レッズ戦で草木克洋と交代で出場しJリーグデビューを果たした。
その後も主に途中出場で活躍し、22試合で3ゴールを決めた。
1994年はサイドハーフやウイングバック、センターハーフとしてプレーし、29試合に出場した。
1995年11月15日の第23節清水エスパルス戦では延長後半に貴重なVゴールを決め、3-2での勝利に貢献した。
1996年はリーグ戦24試合に出場し、安定した活躍をみせる。カップ戦でもマリノス戦、サンフレッチェ戦、浦和レッズ戦でゴールを決める活躍をみせた。
1997年、地元の京都パープルサンガへ移籍。
ペドロ・ローシャ監督の元で、山口敏弘、藤吉信次、山口貴之、大熊裕司、松橋力蔵らとプレー。
松山は攻撃的なポジションだけでなく、ボランチとしてもプレーした。
前年最下位のチームを盛り上げべく奮闘するも、勝ちきれない試合が続き、チームは年間順位14位に沈み、松山はこの年限りで現役を引退した。
松山吉之の引退後と現在
松山は引退後、京都パープルサンガや名古屋グランパスエイト、ガンバ大阪のコーチを務めた。
その後、滋賀学園高等学校のコーチを経てレイジェンド滋賀FCのゼネラルマネージャーに就任している。
2018年には少年サッカースクール「松山T.F.C」を立ち上げ、世界で戦える選手の育成を目標に指導を行っている。