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水沼貴史の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第200回】

正確無比なシュートとトリッキーなドリブルで攻撃を牽引した水沼貴史。

技巧派MFとして木村和司らと日産の黄金期を支え、横浜マリノス創成期の中心人物としても知られる。

大一番に強く、1989年元日の天皇杯決勝戦での珠玉の決勝ゴールや、日本代表として1989年のイタリアワールドカップアジア予選北朝鮮戦での値千金の同点ゴールなど多くの人の記憶に残るゴールを決めた。

水沼貴史は人気低迷期のJSL時代から日本サッカーを支えた一人である。

水沼貴史のJリーグ入り前


水沼は1960年、埼玉県浦和市(現さいたま市)に生まれた。

小学校の時からサッカーを始め、入団した本太少年団ですぐさま頭角を現すと全日本少年サッカー大会で全国優勝を飾る。

進学した本太中学3年で全国中学校サッカー大会でも優勝を経験。

中学卒業後、浦和市立南高等学校(現さいたま市立南高等学校)へ進学。1年生の時からレギュラーに定着。高校2年時からユース日本代表に選出される。その後に全国高校サッカー選手権で優勝。

水沼は小学校、中学校、高校と全てのカテゴリーで全国大会優勝を経験した。

高校卒業後に法政大学へ進学。ワールドユースに出場し、日本代表唯一の得点を挙げた。
大学では総理大臣杯、関東リーグで優勝を経験した。

4年生の時、関東大学サッカーリーグ2部から1部への返り咲きを目標にキャプテンに立候補。自らのダイビングヘッドでゴールを決め見事1部への復帰を果たした。

1983年、日産自動車サッカー部へ入部。
同期にはFWの柱谷幸一、越田剛史、杉山誠、田中真二がいた。

水沼はテクニック溢れるドリブラーとしてウィングや攻撃的MFとして活躍。その年の12月天皇杯、途中出場ながら得点を決め、これを期に少しずつ出場時間が増えていく。

金田喜稔、木村和司らと共に1983年、1985年の天皇杯優勝や、1988-1989シーズンの2年連続三冠に貢献し日産の黄金期を構築した。

個人としても1986-1987シーズンに歴代最多となる17アシストを記録しアシスト王とこの年から3年連続で日本サッカーリーグベストイレブンに選出される。

日本代表としても1984年に日本A代表デビュー。自身代表4試合目となる9月30日の日韓戦ではアウェイの中で貴重なゴールを決め韓国戦初勝利という歴史的快挙に大きく貢献した。

1989年に行われた1990年イタリアW杯予選では、チームの主将として若い選手達をまとめ予選突破に挑んだが惜しくも敗退している。

水沼貴史のJリーグ入り後

1993年5月15日のJリーグ開幕戦となるヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)戦で先発出場。

後半にディアスの決勝ゴールを呼び込むシュートを放ち勝利に貢献した。

Jリーグでの初ゴールは11月17日のガンバ大阪戦で記録。

既にベテランの域に達していた水沼だが、ドリブルや正確なパスで創成期のマリノスの攻撃の起点となる。非凡なセンスで卓越した技術でチームのウィークポイントを埋める活躍を見せた。同年は26試合に出場して3ゴールを記録。

1994年は全44試合中の15試合の出場に留まる。

1995年は自ら半年の契約期間を申し入れる。開幕戦の鹿島アントラーズ戦で途中出場を果たした。

背水の陣で臨んだ1995年シーズンだったがその後は体調不良や年齢からくる衰えもありなかなか出場の機会は訪れなかった。

シーズン途中には日産時代に一緒にプレーをしていた早野宏史が監督に就任するも、「今後(出場)チャンスはない」とはっきり言われ契約更新せず引退することを決意する。

マリノスはこの年、1stステージで優勝。チャンピオンシップではヴェルディを破り年間優勝に輝き、功労者である水沼の引退に花を添えた。

水沼はJリーグでリーグ戦3年間で42試合に出場、5得点の成績だった。

水沼貴史の引退後と現在

水沼は引退後、1996年から10年間、TBSのスーパーサッカーのコメンテーターとして活躍。

その後にS級ライセンスを取得し、2006年2月1日から2007年1月31日の1年契約で、横浜F・マリノストップチームのコーチに就任した。

2008年2月からは法政大学体育会サッカー部のコーチを務めている。

サッカー解説者の仕事は枠が限られており、誰もがなれるわけではない。

今後飛躍的にサッカー関連の番組が増えたとしてもサッカーの試合の開催数は決まっているしそのポストにつける人材は限られている。毎年のように選手の引退や監督・コーチからの転身もありそのポストを維持していく事は容易ではない。

サッカー解説者に求めるものは何だろう。

ユニフォームを着て仲間とお酒でも飲みながら観戦する時は少しでも臨場感を味わえるようにリアクションの大きい解説者の方が楽しいだろうし、1人で落ち着いて静かに観たい時は淡々と必要な情報を発信してくれる解説者の方が良い。

今ではインターネットの発達により何処にいてもリアルタイムでJリーグの試合を観れるようになった。そのうち、解説者についても視聴者がリモコンで選択できる時代が来るかもしれない。

様々な解説者がいるが、水沼のようにラジオの時代から解説を務め10年に渡ってテレビ解説を務めた人は少ない。水沼の解説を聞いてサッカーを知った人も多いだろう。

水沼はインタビューで、解説という仕事を片手間にやる人間が許せないと話している。次の現場の仕事が決まるまでのつなぎとしてやるのは違うのではないかと。

今では世界のサッカーか当たり前のように見れて視聴者の目も肥え、SNSやブログで簡単に発信され共有されていく時代だ。そんなスタンスで仕事をしている解説者は簡単に見破られ淘汰されていくだろう。

今後も日本代表や海外でのプレーを経験した著名な選手が引退後に続々と解説者のポストに名を連ねていく。その中で解説者として生き残っていくには知名度や話術ではなく、視聴者が何を求めていてそれに対して自分がどう発信するかを信念をもって伝えるポリシーが重要なのではないだろうか。

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