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河村崇大の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第493回】

的確なポジショニング能力を持ち、ゲームをコントロールするバランサーとして活躍した河村崇大。

ジュビロ磐田ユース時代は快速FWとして活躍するも、プロ入り後はボランチへ転向。
リーグ優勝、天皇杯のタイトル獲得に貢献した。

現役晩年はタイプレミアリーグに活躍の場を移し7シーズンに渡って活躍した。

河村崇大のJリーグ入り前


河村は1979年に静岡県島田市に生まれた。

6歳の時にサッカーを始め、六合サッカースポーツ少年団に所属した。
当時から足が速く、攻撃的なMFとしてプレーした。

六合中学校進学後、サッカー部に所属し様々なポジションを経験。
チームの中心として活躍し、ジュビロ磐田ユースのテストを受け合格した。

常葉学園菊川高等学校進学後、ジュビロユースでプレー。
高校2年次からサテライトリーグに出場するなど将来を嘱望された。
高校3年次にはキャプテンに就任。
50メートル6秒2で走る俊足を武器にFWとして活躍した。

高校卒業後、ジュビロ磐田のトップチームに昇格。
同期入団に川口信男(順天堂大学)、泰澤秀幸(磐田ユース)山田智紀(磐田ユース)、太田健(磐田ユース)がいる。

河村崇大のJリーグ入り後

プロ1年目は出場機会がなく、入団2年目にアルゼンチンの名門・CAリーベルプレートへ10ヶ月の留学を経験した。
リーベルで公式戦出場は叶わなかったが、異国の地でスペイン語を学び、サッカーの本場で揉まれたことが河村にとって大きな経験となったという。

帰国後の2001年。
ジュビロで4シーズン目を迎えた河村は、2001年6月23日1stステージ第12節アビスパ福岡戦でベンチ入りを果たすと、福西崇史と交代で出場しJリーグデビューを飾った。
その後も後半からの守備固めとして起用され、同年はリーグ戦6試合に出場した。

2002年からは背番号4を背負い、右サイドハーフとして活躍。
出場機会を増やし、リーグ戦16試合に出場し、ジュビロの完全優勝を経験した。

2003年はボランチとして出場機会を大きく伸ばす。
同年9月6日2ndステージ第4節セレッソ大阪戦ではJリーグ初ゴールをマーク。
第9節ヴィッセル神戸戦、第14節ガンバ大阪戦でもゴールを決め、同年はリーグ戦22試合で3ゴールを決めた。

2004年以降も層の厚いジュビロの中盤において一定の出場機会を得るも、完全にレギュラーを奪取するまでは至らなかった。

2006年は出場機会を求めてセレッソ大阪へレンタル移籍。
セレッソでも背番号4を背負い、小林伸二監督の信頼を勝ち取ると開幕戦の名古屋グランパスとの試合からボランチで起用される。
シーズン途中で負傷するもリーグ戦21試合に出場。セレッソの舵取り役として支えるも、チームは低迷し年間17位となると5シーズンぶりのJ2降格が決定した。

2007年は川崎フロンターレへレンタル移籍。
第3節横浜FC戦で先発出場を果たすと、その後は中村憲剛、谷口博之らとともに中盤を支えた。

2008年はジュビロ磐田へ復帰。
シーズン序盤は3-5-2のボランチとして起用される。
第6節コンサドーレ札幌戦ではコーナーキックからのこぼれ球を押し込み、ジュビロ復帰後初ゴールをマークした。
しかしシーズン後半は出場機会が減少し、この年をもってジュビロを退団。

2009年はJ2東京ヴェルディへ移籍。
経験を生かしバランサーとしてマルチな働きを見せ、リーグ戦32試合に出場。
しかしシーズン中盤に負傷し戦線を離脱すると、この年をもってヴェルディを退団。

2010年からはタイへ渡り、ポリス・ユナイテッドFCでプレー。
2年契約で入団するも1年で契約を打ち切られるという不運を味わった。

2011年からはTOTスポーツクラブでプレー。
TOTではキャプテンを務め、プレースキックも担う。

2014年にはシーズン序盤から得点源として活躍。出場停止の1試合を除いた全試合にフル出場しリーグ戦で9ゴールを決める活躍を見せた。

2015年も主力としてチームを牽引し、第12節スパンブリーFC戦では貴重なPK弾を決め、大手メディア「SMM SPORTS」が選出するタイプレミアリーグ第12節のベストイレブンに選出された。

2016年はポリス・テロFCへ移籍、1シーズンプレーしこの年をもって現役を引退した。

河村崇大の引退後と現在

河村は引退後、指導者として活躍。

ジュビロ時代にともにプレーした名波浩、清水範久田中誠らとともにSKYサッカーアカデミーのコーチとして活動している。

また、JFAこころのプロジェクトの夢先生として全国各地の学校を回り、自身の経験をもとに夢を持つことの大切さを子供たちへ伝えている。

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