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中村北斗の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第494回】

高校選手権の決勝に3年間連続でフル出場を果たしたのは長い歴史上、中村北斗たった1人だ。

豊富なスタミナと前線への推進力を武器に、アビスパ福岡、FC東京、大宮アルディージャ、V・ファーレン長崎で活躍。

左右のサイドバック、サイドハーフ、ボランチなど様々なポジションで機動力を発揮した。

中村北斗のJリーグ入り前


中村北斗は1985年に長崎県諫早市に生まれた。
10歳上に元プロ野球選手の中村隼人がいる。

多良見町立喜々津小学校に入学後、3年生の時にサッカーを始め喜々津少年SSCに入団する。

多良見町立喜々津中学校に進学後は長崎フットボールクラブに所属しFWとしてプレー。
中学時代は長崎県選抜に選出されるなど注目された存在だった。

中学校卒業後、名門の長崎県立国見高等学校へ進学。
同学年に平山相太(FC東京)、兵藤慎剛(横浜F・マリノス)、関憲太郎(ベガルタ仙台)、1学年上に渡邉大剛(京都サンガFC)、柴崎晃誠(東京ヴェルディ)、巻佑樹(名古屋グランパス)、松橋優(大分トリニータ)、1学年下に藤田優人(東京ヴェルディ)、渡邉千真(横浜Fマリノス)、城後寿(アビスパ福岡)がいる。

小峰監督のもと、1年次から背番号24を与えられると選手権でスタメンに起用される。
この年は決勝で岐阜工業を3-1で破り、優勝を果たした。
全日本ユースでも優勝し、インターハイではベスト8の成績を残す。
同年にU-18日本代表に選出される。

2年次は背番号8を背負い、ボランチとして活躍。
選手権では決勝に進み、連覇が期待されたが0-1で市立船橋に敗れている。
インターハイでは帝京に敗れ準優勝となるも、全日本ユースは海星を3-0で下し連覇を果たした。

3年次は背番号6を背負い、藤田優人とのコンビで不動のボランチとして活躍。
3年連続で選手権の決勝に進み、決勝で筑陽学園を6-0で下し優勝を果たした。
全日本ユースは決勝トーナメント1回戦で敗れるもインターハイでは優勝を果たしている。

高校卒業後、J2のアビスパ福岡へ入団。
同期入団に柳楽智和(立正大淞南高校)、田中佑昌(アビスパ福岡U-18)、木藤健太(近畿大学)がいる。

中村北斗のJリーグ入り後


入団1年目はサテライトでの調整が続き、出場機会は訪れなかったが、2年目の3月5日開幕戦のサガン鳥栖との試合で右アウトサイドとして初出場。
第2節水戸ホーリーホック戦では2ゴールを決め、4-1での勝利に貢献した。
同年はシーズンを通して起用され、リーグ戦34試合に出場し4ゴールをマークしリーグ戦2位でJ1昇格を果たした。
同年6月にはU-20日本代表の一員として、FIFAワールドユース選手権に出場しベスト16入りに貢献した。

2006年は自身初なるJ1での戦いとなったが、右サイドバックとして安定したプレーを続け、リーグ戦30試合に出場するもチームは低迷し1年でのJ2降格が決定。
不運は続き、U-21日本代表として臨んだ11月の親善試合・韓国戦で右膝前十字靭帯を損傷し全治6ヶ月の重傷を負った。
同年の新人賞を藤本淳吾、内田篤人とともに受賞。

2007年は右膝前十字靭帯と半月板の損傷によりシーズンを棒に振るも、2008年は完全復帰。
機動力を生かし、右サイドハーフとして攻撃の起点となりリーグ戦38試合に出場。
昇格を目指したが、福岡は最終順位8位に留まり、この年をもってチームを退団した。
同年、U-23日本代表として福岡からただ一人選出され、トゥーロン国際大会へ出場した。

2009年は複数あったオファーの中、FC東京へ移籍。
国見時代の盟友、平山相太と同チームで戦うことになった。
入団1年目のシーズン当初はベンチ入りも果たせなかったが、第12節横浜Fマリノス戦で梶山陽平と交代でピッチに立つと、その10分後に決勝ゴールを決め1-0での勝利に貢献した。
天皇杯のザスパ草津戦では後半18分に途中出場からドライブのかかった芸術的なフリーキックを決め、勝利に貢献した。
同年はリーグ戦10試合に出場し2ゴールをマーク。

2010年はACチェゼーナへ移籍した長友佑都の穴を埋めるべくサイドバックとして活躍。
リーグ戦28試合に出場し、豊富な運動量と積極的な攻撃参加で見事に穴を埋めるも、チームは勝ちきれない試合が続きJ2に降格した。

2011年もFC東京に残留し、左サイドバックとしてコンスタントに出場。
しかし第27節の京都サンガ戦で椋原健太にスタメンを奪われると、以降は控えに回ることになった。この年、自身2度目となるJ1昇格を経験。

2012年はシーズン序盤は出場機会がなかったが、夏に左サイドバックのレギュラーを奪取。
同年7月7日の第12節ガンバ大阪戦では開始3分にガンバGK藤ヶ谷陽介の股を抜く鮮やかな先制ゴールを決め3-2での勝利に貢献した。
しかしシーズン終盤に痛めていた膝の手術を決行。2013年はリハビリのために公式戦出場が0に終わった。

2014年はJ1大宮アルディージャへ移籍。
大熊清監督のもとで左右のサイドバックとしてプレーし、リーグ戦20試合に出場。
しかしチームは低迷。福岡、FC東京時代に続き、3度目のJ2降格を経験することになった。

2015年は古巣のアビスパ福岡へ7年ぶりの復帰。
井原正巳監督のもとで右サイドバック、右サイドハーフ、ボランチとしてフル稼働。
リーグ戦30試合に出場。昇格プレーオフ決勝では値千金のゴールを決め5年ぶりのJ1昇格に貢献した。

2016年は副キャプテンとしてチームをまとめる。
序盤はレギュラーとして稼働するも、夏に元日本代表サイドバックの駒野友一が加入すると出場機会が減少。
1stステージが僅か2勝に留まった影響もあり、福岡は年間順位16位以下が決定し、またしても1年でJ2降格となった。

2017年のアビスパはJ2でリーグ戦4位に入り、プレーオフに進む。
決勝で名古屋グランパスと対戦し、0-0のまま試合が終了。レギュレーションにより3位の名古屋が1年でのJ1復帰を果たした。
中村自身は怪我の影響もありリーグ戦5試合の出場に留まり、この年をもって福岡を退団した。

2018年はJ1のV・ファーレン長崎へ移籍。
長崎ではベテランとしてチームを支えるが、1年でJ2へ降格。
中村自身も膝の状態が芳しくなく、2年間の在籍でリーグ戦2試合の出場に留まり2019年シーズンをもって現役を引退。34歳で16年間の現役生活に区切りをつけた。

中村北斗の引退後と現在

中村は引退後、2020年からアビスパ福岡U-18コーチに就任。

また実業家としても活動し、2021年から大豆製品の移動販売を手掛ける「GOCHISOY(ゴチソイ)」をスタートさせている。

高校選手権史上、たった一人である3年連続での決勝戦フル出場を果たし、満を持してアビスパ福岡でプロ選手としてのキャリアをスタートさせた中村北斗。

年代別日本代表に選出され、順当にステップアップしていたが、U-21日本代表の韓国戦で激しい接触による膝の損傷が後の中村のプロ人生に大きな影響を与えた。

浮き沈みの激しい現役生活だった。

福岡で2回、FC東京で1回J1昇格を経験したが、福岡で2回、FC東京、大宮、長崎でそれぞれ1回ずつJ2への降格もまた経験している。

それでも16年間の現役生活の中でJ1でリーグ戦115試合、J2でリーグ戦136試合出場は立派な記録だ。

他のJリーガよりも多くの感動と絶望を味わった男のセカンドキャリアに注目したい。

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