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其田秀太の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第396回】

ともに初出場校の決勝戦で大きな話題となった第65回選手権決勝の東海大一高対国見高。

国見の司令塔・其田秀太はピッチ内で躍動した。

この決勝戦を観戦した元ブラジル代表のFWカレカは、其田のプレーを見て「この選手は面白い」と唸った。

天才と呼ばれた背番号17は、キレのあるドリブルと繊細なボールコントロールで国見のトータルフットボールを体現し、満員の国立競技場を魅了した。

其田秀太のJリーグ入り前

其田は1969年に長崎県に生まれた。

小学校でサッカーを始め、小嶺忠敏が赴任している長崎県立国見高校に進学。1学年上に高木琢也(サンフレッチェ広島)、古島清人(ベルマーレ平塚)、同学年に小島光顕(サンフレッチェ広島)、赤澤昌美(鹿島アントラーズ)がいる。

国見では司令塔として活躍。高校3年次に出場した選手権では背番号17を背負い、国見のゲームメイクを担った。

準々決勝では尾崎勇史をようする四日市中央工を3-0で下し、準決勝では野田知、財前恵一ようする室蘭大谷を1-0で下した。

決勝では澤登正朗大嶽直人、三渡洲アデミール、内藤直樹吉田康弘、平沢政輝らをようする東海大一と対戦。

其田は国見のコントロールタワーとして、独特なドリブルと華麗なスルーパスを駆使し、何度も東海大一のゴールに迫った。

試合は三渡洲アデミールの鮮やかなゴールなどで0-2で敗れたが、この試合をスタンドで観戦したカレカは、其田について「サントスレベルの選手はブラジルにはいくらでもいるが、あの17番は面白い」と評価した。
この試合のゲスト解説を務めた三浦知良は「ドリブルの感覚がとても良い。相手との距離感がよく分かっている」と評価している。
其田は大会優秀選手として、高校選抜に選出された。その他にも3年次にインターハイにも出場し初優勝を達成した。

高校卒業後、サッカーから離れ一般企業に就職するも、小嶺監督の紹介でJSLの全日空サッカークラブにプロ契約で入団する。

全日空では入団1年目からレギュラーとして活躍。
2年目にはリーグ戦5得点を挙げ、全日空のシーズン3位に貢献した。

JSLでは在籍4年でリーグ戦63試合に出場し10ゴールを決めた。

其田秀太のJリーグ入り後

1992年、全日空は横浜フリューゲルスとして始動。
監督に加茂周を迎え、戦術にゾーンプレスを採用し注目を集めた。
其田はドリブルの能力を評価されサイドバックにコンバートされるが、出場機会はなかった。

1994年、JFLの藤枝ブルックス(現アビスパ福岡)へ移籍。
ピッコリ、シビスキ、ホルヘ・アルベーロら強力なアルゼンチン人や冨嶋均、河原忠明ら元横浜フリューゲルスの選手と共にチームを支えた。

1995年には、右のオフェンシブハーフとして活躍し、宮村正志、元アルゼンチン代表のペドロ・トログリオ、ディエゴ・マラドーナの実弟であるウーゴ・マラドーナとともに中盤を形成し、Jリーグ昇格に貢献した。

1996年、アビスパ福岡の一員として再びJの舞台に戻ってきた其田は、4月13日第7節セレッソ大阪戦でJリーグデビューを果たした。
第16節ベルマーレ平塚戦では途中出場からJリーグ初ゴールをマークした。

この年はリーグ戦17試合に出場するも、チームの成績は奮わず、この年限りで福岡を退団。

その後は東京都リーグの佐川急便東京でコーチ兼任選手として活躍。
3シーズンプレーし、現役を引退した。

其田秀太の引退後と現在

其田は現役引退後、JFLの佐川急便東京で監督を務めた。

その後は指導者A級ライセンスを取得し、サッカースクールの運営を行う株式会社クーバー・コーチング・ジャパンに所属。全国各地で指導を行っている。

其田秀太は高校サッカー、JSL、JFL、Jリーグと様々なカテゴリーでプレーしたが、高校サッカーでの印象が強いというファンは多いだろう。

国立での選手権決勝では、技術のある三都主アデミールや、堅実なプレーが目立った澤登正朗とは対照的に、其田のプレーは華があり、どこか危険なにおいがする印象だった。

まだJリーグが開幕するずっと昔の話ではあるが、其田からは何かやってくれそうな雰囲気が漂っていた。

残念ながらJリーグでは日の出をみることはなかったが、あの時代に見せた強烈な個性は色褪せることはないだろう。

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