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高木琢也の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第190回】

その男は「アジアの大砲」と呼ばれた。

身長188センチ体重82キロという当時の日本人選手の中では群を抜いたフィジカルの強さで日本を代表するセンターフォワードとして活躍。

打点の高いヘディングだけでなく両足から放たれる強力なシュートはまさに大砲と呼ばれるべきものだった。

ポストプレーにも優れ、最前線の収まりどころとしても活躍。ロングボールを高木琢也に当てて、2列目やサイドの選手が裏のスペースに抜けていく戦術は所属したJリーグのチームだけでなく日本代表の貴重な攻撃パターンの一つでもあった。

常に身体を張りターゲットマンとして君臨した高木琢也は国内外の多くのDFに削られ続け、アキレス腱断裂や膝の負傷という大怪我とも付き合っていかなければならなかった。

日本屈指の大型FW、高木琢也に迫る。

高木琢也のプロ入り前


高木は1967年に長崎県南島原市に生まれた。

小学校時代は野球に没頭。左投げ左打ちの高木は投手を任される。当時から身体が大きく運動能力も高かった高木は地元でも有名な野球少年だった。

しかし進学した中学校には野球部がなく高木はサッカー部に入り本格的にサッカーを始めた。

国見高校に進学後、高木が2年の時に名将小嶺忠敏が赴任。厳しい練習に耐え3年時には主将としてインターハイに初出場。また長崎県選抜に選出され出場した国体では得点王に輝くなど早くからストライカーとしての片鱗を見せる。

高校を卒業後、大阪商業大学へ入学し、同大学のサッカー部でプレー。大学2年時から2年連続で関西大学リーグ1部優勝を果たし、3年時には関西大学リーグの得点王とアシスト王に輝いた。

大学を卒業した高木は日本サッカーリーグ2部のフジタ(現湘南ベルマーレ)へ加入。

初年度からリーグ戦15試合に出場するも3得点に留まる。翌年、日本サッカーリーグ1部マツダSC監督である今西和男に誘われマツダに加入する。

高木はセンターフォワードとして起用されリーグ戦22試合に出場し9得点を挙げる。得点ランキングでは4位、アシストランキングでは3位に入る活躍でこの年で最後となる日本サッカーリーグの新人王を獲得した。

この活躍が認められ、1992年にハンス・オフト監督により日本代表に選出。同年のダイナスティカップでは不動のレギュラーとして活躍。三浦知良と2トップを組み、4ゴールを挙げるとダイナスティカップ得点王に輝いた。

また、アジアカップにも出場し決勝のサウジアラビア戦では左サイドからのクロスを胸トラップしてからボレーシュートで決める鮮やかなゴールを決め優勝に貢献。

そしてこの年、Jリーグ入りの為にマツダSCはサンフレッチェ広島へ改称。高木はプロ契約を結ぶ事となった。

高木琢也のプロ入り後

Jリーグ開幕前からサンフレッチェ広島の顔としてメディアから紹介される。

Jリーグ開幕試合の1993年5月16日のジェフ市原戦でJリーグデビューを飾り第3節の横浜マリノス戦で初ゴールを記録。

このシーズンは二桁得点を記録し、アメリカワールドカップを目指す日本代表の攻撃の核として期待される。

アジア最終予選でも9試合に出場するがなかなか得点を奪えず、中山雅史の台頭もあり寸前のところでワールドカップ初出場を逃したドーハの悲劇ではベンチ入りをするも出場の機会はなかった。

翌年の1994年には、イワン・ハシェックと抜群のコンビで、広島のサントリーシリーズ優勝の原動力となった。

高木をターゲットマンにノジュンユンチェルニーが躍動するサンフレッチェのサッカーは勝星を挙げ続け、高木はサンフレッチェから唯一となるベストイレブンに選出された。

しかし同年のヴェルディ川崎とのチャンピオンシップ第2戦で左足アキレス腱を断裂。以前から左脚アキレス腱周囲炎を発症するなど不安を抱えていた高木であったが、年間優勝のかかる大一番への出場を強く希望した結果が最悪の事態を生んだ。

試合後まもなく福岡の病院で手術を受け、その後バクスター監督の紹介によりスウェーデンへ渡り懸命なリハビリを行う。

高木は翌年の2ndステージ途中からチームに復帰。10月4日のセレッソ大阪戦で326日ぶりとなるゴールを決めた。

その年末からの天皇杯では4試合連続ゴールと完全復活し、チームを準優勝に導く。

1996年には日本代表にも復帰。フランスワールドカップ初出場へ向け、アジア予選に出場。1997年には代表戦5試合で7得点を挙げるなど復調をアピールするも呂比須ワグナーや城彰二の台頭によりこの年が代表最後の招集となりワールドカップ出場は叶わなかった。

1998年、ヴェルディ川崎へ移籍。

代表でもコンビを組んだ三浦知良と2トップを組む。打点の高いヘディングとポストプレーは大きな武器となり、加入1年目はハットトリックを達成するなどストライカーとしての健在ぶりをアピールする。しかし翌年はチームの低迷もあり18試合に出場し2得点に留まった。

1999年末にオファーのあったコンサドーレ札幌へ移籍。

怪我により万全な状態ではなかったが前線から積極的に守備を行うなどベテランとしてチームを牽引し、札幌のJ2優勝に貢献した。

しかし高木自身はリーグ戦17試合に出場しながらも無得点に終わる。
膝の怪我も完治せず満足のいくプレーが困難になった高木はこのシーズン限りで現役を退く事を表明した。

高木琢也の引退後と現在

高木は引退後、サッカー解説者やヴィファーレン長崎の技術アドバイザーを歴任した後に2006年にJ2横浜FCの監督に就任。

リーグ戦途中での就任という難しい状況ながら高木が就任後に横浜FCは15戦無敗となるなど手腕を発揮。高木の用いた堅固な守備からのカウンターを基本とした戦術は770分間連続無失点のJリーグ新記録、及び7試合連続無失点のJ2タイ記録も樹立し横浜FCが優勝する大きな要因となった。

その後、東京ヴェルディやロアッソ熊本の監督を歴任し2013年より地元であるヴィファーレン長崎の監督に就任し2017年にはチームをJ1初昇格に導いた。

2019年より大宮アルディージャの監督に就任し、2021年からはSC相模原の監督を務めたが2022年に解任されている。

高木琢也は現役時代、実にセンターフォワードらしいセンターフォワードだったと思う。

間違いなくJリーグ創世記を代表する選手であったが、その当時特有の派手な一面を見せる訳でもなくプレーで魅せるタイプの選手だった。

スピードで勝負するタイプや裏への飛び出しで勝負するタイプ、ポジショニングの良さで勝負するタイプなど様々なタイプのFWがいるが、高木琢也のように身体を張ってターゲットマンとなり代表でも活躍した選手は日本には多くない。

もしあのアキレス腱断裂がなければもっと長くトップレベルでプレーする高木の勇姿を見れたかもしれないと思う。

しかし高木自身は「怪我をネガティブに考えたことは一度もなかった」と話している。

この言葉が表す通り、高木は度重なる怪我を乗り越え再び代表に返り咲く。

そして国立競技場で行われた1997年のアジア最終予選のカザフスタン戦で見せた執念の復活ゴールに繋がっていく。

残念ながらワールドカップには縁がなかったがアジアの大砲が世界を舞台に躍動する姿を夢見た人も多いだろう。

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