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河本充弘の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第391回】

積極的な攻撃参加と豊富な運動量を武器に黄金期のヴェルディ川崎で活躍したサイドバック・河本充弘。

1993年、Jリーグ初年度の年間王者を決める鹿島アントラーズ戦では、ヴェルディの最年少選手としてフル出場し、年間優勝に貢献した。

日本を代表する左サイドバック・都並敏史の後継者としてレギュラーは確実視されていたが、度重なる怪我のために、プロとしてのキャリアは短命に終わってしまった。

河本充弘のJリーグ入り前


河本は1971年に神奈川県に生まれた。

小学校の時にサッカーを始め、たちばなキッカーズに入団。
背番号10を背負い、攻撃的なポジションでプレーした。

中学校入学後、読売クラブの下部組織に加入。

高校入学後は読売ユースに昇格した。
同期は中村忠(ヴェルディ川崎)、冨樫剛一(ヴェルディ川崎)、岡島清延(浦和レッズ)がいる。1学年上に藤吉信次(ヴェルディ川崎)、1学年下に阿部良則(ヴェルディ川崎)がいる。
ユースではDFとして活躍。高校2年次から2年連続で日本クラブユース選手権を制覇。
2年連続で決勝の相手は三菱養和SCだった。尚、読売ユースは5年連続でこの大会を制覇している。

高校卒業後の1989年、読売サッカークラブのトップチームに昇格。
入団後しばらくは、ファームに相当するJSL2部の読売ジュニオールで大渕龍介監督のもとで経験を積んだ。

河本充弘のJリーグ入り後

1993年5月26日、第4節鹿島アントラーズ戦で4-4-2の左サイドバックとして先発しJリーグデビューを果たす。
その後も都並敏史や中村忠が欠場した際に起用され、リーグ戦13試合に出場した。
9月11日、ヤマザキナビスコカップの鹿島アントラーズでは同期の冨樫剛一とDFラインを形成している。
年間王者を決めるチャンピオンシップ第2戦鹿島アントラーズ戦ではフル出場し、ヴェルディの年間優勝に貢献している。

1994年もサントリーシリーズはレギュラーとして出場を続けるも、5月に左足首のじん帯を損傷。
6月6日には手術を行い長期離脱となり、出場機会を失った。

1995年、出場機会を求め、ヴェルディの若手である阿部良則山口貴之と3人でJFLのブランメル仙台にレンタル移籍。
背番号19を背負い、サイドバックや守備的MFとしてプレーした。

1996年には同じJFLの鳥栖フューチャーズへ、阿部良則とともに移籍。
この年の鳥栖は、セレッソ大阪で1995年に19ゴールを決めたFWホルヘ・バルデス、浦和レッズからMF上原エドウィン、森保一の弟であるDF森保洋などが加入。
優勝候補といわれたが年間順位4位となった。尚、鳥栖フューチャーズは翌年の1997年に10億4300万円の負債を抱え解散している。

河本は怪我の影響もあり、1996年でのプレーをもって現役を引退した。

河本充弘の引退後と現在

河本は引退後、1997年に佐川急便に入社し、会社員としてセカンドキャリアを築いている。

河本は足首の手術など大きな手術を数度経験しており、プロとしてのキャリアが短命となってしまった。生え抜きの選手として首脳陣も期待していただろうし、何より本人が一番悔しかっただろうと思う。

河本が引退当時のJリーガーのセカンドキャリアは、支援制度なども整理されておらず、サッカーの経験を生かすにしても、指導者としての道は不安定なものだった。そんな状況の中、Jリーガーとしての肩書やプライドを捨て、異業種の世界に飛び込み、0から再スタートを切った河本。その勇気と決断力は本当に素晴らしいと感じる。

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