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田中真二の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第390回】

日産時代には不動の左サイドバックとして2年連続のJSL、天皇杯、JSLカップの3冠を達成。

浦和南高校時代は1年次から選手権で優勝を経験。大学時代から日本代表に呼ばれるなど、若かりし頃から将来を嘱望された。

日本代表として、国際Aマッチ17試合に出場しワールドカップ・1980年スペイン予選や1985年メキシコ予選を戦った田中真二。

現役晩年に地元の浦和レッズに移籍。1993年・開幕年のレッズの守備の柱として活躍した。

田中真二のJリーグ入り前


田中は1960年に埼玉県与野市(現さいたま市)に生まれた。

小学校5年生の時にサッカーを始め、少年団に入団する。

さいたま市立与野東中学校卒業後、名門の浦和南高校へと進学。同学年に水沼貴史(横浜マリノス)がいる。

高校1年次からレギュラーを掴み、選手権に出場。決勝戦で静岡学園を5-4で下し優勝を果たした。
2年次にも選手権に出場し、3連覇が期待されたが、四日市中央工業に1-2で敗れた。この大会は早稲田一男や宮内聡をようする帝京高校が優勝した。

高校卒業後、スポーツ推薦で中央大学へ進学。同学年に信藤健仁(浦和レッズ)がいる。

大学1年次にU-20日本代表に招集。翌年にはA代表に選出され、モスクワ五輪アジア予選に出場した。田中は当時の代表メンバーで最年少であった。
1980年3月30日、モスクワオリンピックアジア地区予選のマレーシア戦で代表デビューを飾る。
下村幸男監督のもとで木村和司、前田秀樹、金田喜稔、清雲栄純などとともにアジア予選を戦ったが、予選で敗退している。

その後も日本代表に選出され続け、ワールドカップ・スペイン大会予選、ロサンゼルスオリンピック予選、ワールドカップ・メキシコ大会予選に出場している。

大学卒業後、JSLの日産自動車サッカー部(現横浜Fマリノス)に入団する。

日産では入団1年目から主力として活躍。
1988-1989シーズン、1989-1990シーズンと2年連続ではJSL、天皇杯、JSLカップの3冠を達成。
1989-1990シーズンは木村和司、レナト、柱谷哲二とともにベストイレブンに選出されている。

1992年、Jリーグ開幕の前年に、地元の浦和レッズに移籍する。

田中真二のJリーグ入り後

1992年9月5日、ヤマザキナビスコカップ第1節ジェフユナイテッド市原戦で左サイドバックとして浦和でのデビューを果たすと、カップ戦全試合に出場した。

1993年、Jリーグが開幕。
開幕戦のガンバ大阪戦から出場を続けるも、浦和は開幕から4連敗を喫した。
第5節ヴェルディ川崎戦でPK戦の末に、Jリーグ初勝利を果たした。

その後も浦和は勝ちきれない試合が続くも、田中はベテランとして出場を続けチームを支えた。
このシーズンはリーグ戦22試合に出場するも、この年限りでレッズを退団。

1994年はJFLの京都パープルサンガへ移籍。
エバートン、美濃部直彦、草木克洋、木寺浩一、野口裕司らとともにプレー。
1995年は、日産時代に3冠を達成した際にともにプレーしたオスカーが監督に就任するも、怪我もあって出場機会はなくこの年限りで現役を引退した。

田中真二の引退後と現在

田中は引退後、JFLの福島FCや徳島ヴォルティスの前身である大塚製薬のコーチを務めた。
その後、関西リーグのバンディオンセ加古川や埼玉県リーグのアヴェントゥーラ川口で監督を務めた。

現在は解説者として活躍し、指導者としても栃木県小山市ものFC CASA(カーザ)のクラブ総監督を務めている。

選手としても、指導者としても日本サッカーの最前線で戦ってきた田中真二。

栃木県・小山の地にサッカーの文化を根付かせることができるか。

田中真二の挑戦を見届けたい。

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