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美濃部直彦の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第371回】

創世記のガンバ大阪のDFとして活躍した美濃部直彦。

攻撃的なサイドバックであり、積極的なオーバーラップからの正確なクロスでガンバ大阪の攻撃をアシストした。

1994年には京都パープルサンガに移籍し、初代キャプテンとしてチームを牽引。

現役時代から一貫したトレードマークの髭で知られている。

美濃部直彦のJリーグ入り前

美濃部は1965年に滋賀県守山市に生まれた。

中洲小学校入学後にサッカーを始め、守山北中学校を経て守山高校に進学。

守山高校では名将・松田保監督の元でサッカーを学ぶ。高校2年次から2年連続で滋賀県代表として選手権に出場。
3年次には滋賀県勢初のベスト4入りの原動力となり、美濃部は大会優秀選手に選出されている。

高校卒業後の1984年、当時JSL2部のガンバ大阪の前身である松下電器産業サッカー部に入団する。

1985年、松下電器はJSL2部で年間優勝を達成し、1部に昇格する。
1986年から出場機会を得た美濃部は、果敢なオーバーラップから正確なセンタリングを配給できるサイドバックとして活躍しリーグ戦18試合に出場した。

松下電器はFW梶居勝志、永島昭浩らが奮闘するも勝ちきれない試合が続き、12チーム中、年間11位に低迷。1年で2部に降格した。

1987年はJSL2部で年間2位となり1988年には再びJSL1部で戦うことになった。

1990年度の天皇杯には松下の主力として水口洋次監督の元、スタメン出場を続け、決勝では三連覇を狙う日産自動車と対戦。
日本代表の木村和司水沼貴史松永成立井原正巳柱谷哲二らを擁する日産と激闘の末、PK戦に突入し勝利を収めている。

1992年、松下電器はJリーグ入りを翌年に控え、ガンバ大阪に改称。美濃部はガンバとプロ契約を結ぶ。

美濃部直彦のJリーグ入り後

1992年、Jリーグ開幕の前年に開催されたヤマザキナビスコカップでは序盤はベンチを温める日々が続いたが、10月7日の鹿島アントラーズ戦で背番号5を背負いデビュー。
次節の浦和レッズ戦でもスタメン出場し、浦和の柱谷幸一に先制ゴールを奪われるも前半終了間際に貴重な同点ゴールを決めた。

1993年、Jリーグが開幕。
怪我の為に出遅れるも、6月30日第14節横浜フリューゲルス戦でJリーグ初出場を果たす。
その後はサイドバックとしてレギュラーで起用され、11月10日NICOSシリーズ第11節鹿島アントラーズ戦では3-3のまま延長戦に突入し、美濃部のVゴールで勝利を収めている。

また第12節サンフレッチェ広島戦でもゴールを決め、サイドバックながら2戦連続ゴールを決めている。
しかしガンバ大阪は10チーム中、年間順位7位と奮わず、美濃部ら中堅の選手たちの多くはこの年限りでガンバを去ることになった。

1994年はJFLの京都パープルサンガへ移籍。
京都は美濃部の他に、草木克洋、木寺浩一、杉山誠らJリーグ経験者を大量補強。
美濃部はキャプテンとしてリーグ戦29試合に出場。京都は年間順位5位に食い込む健闘を見せた。

1995年、京都は年間順位2位で翌年のJリーグ昇格を果たすも、美濃部はこの年限りで現役を引退した。

美濃部直彦の引退後と現在

美濃部は現役引退後、京都サンガに残り指導者として活動。
下部組織のコーチを務め、2006年から監督を担った。

その後、徳島ヴォルティス、京都産業大学、AC長野パルセイロ、ギラヴァンツ北九州で指導者を務め、2021年から関西サッカーリーグのポルベニル飛鳥の監督を務めている。

また、ミノベフットボールアカデミーを立ち上げ、地元の守山や京都などでスクールを展開している。

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