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平岡宏章の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第372回】

清水エスパルスの攻撃的な左サイドバックとして活躍したDF平岡宏章。

ひと投げで一気に形成を逆転することが出来るロングスローを武器にチャンスを演出した。

学生時代は世代別代表としても活躍し、バルセロナ五輪出場を目指す日本代表としてアジア予選を戦った。

選手引退後は指導者として現場に残り、古巣の清水エスパルスで監督も務めた。

平岡宏章のJリーグ入り前


平岡は1969年に静岡県清水市に生まれた。

幼いころからサッカーを始め、小学校3年生の頃に静岡県清水区内にある小学生サッカークラブチームの主力選手を集めた選抜チームである清水FCに選抜される。
清水FC時代には数多くの全国大会を経験した。

中学校卒業後、名門の清水商業高校へ進学。
1学年上に青嶋文明(清水エスパルス)、1学年下に古賀正人(横浜マリノス)、三浦文丈(横浜マリノス)、太田貴光(清水エスパルス)がいる。

清水商業高校は平岡が1年次に選手権に出場し全国優勝を達成するが、2年、3年次は東海大一が出場している。

高校卒業後、順天堂大学へ進学。
同学年に小村徳男(横浜マリノス)、棚田伸(柏レイソル)、森山泰行(名古屋グランパス)、古賀琢磨(ジュビロ磐田)がいる。

順天堂大学では総理大臣杯や春季大会などのタイトル獲得に貢献した。また年代別日本代表にも選出されている。
また大学4年次にはバルセロナオリンピック出場を目指す日本代表に選出され、アジア予選を戦った。

順天堂大学卒業後、清水エスパルスに入団する。

平岡宏章のJリーグ入り後

1992年、Jリーグ開幕前年に開催されたヤマザキナビスコカップでは、累積警告で出場できなかったジェフユナイテッド市原戦以外はすべて出場。
決勝戦のヴェルディ川崎戦にも左サイドバックとして出場している。
後半に三浦知良のゴールで劣勢に立たされた清水は、巻き返しのために平岡はFW青島文明と途中交代しているが試合は0-1で敗れている。

1993年、Jリーグが開幕。
記念すべき開幕戦であるサントリーシリーズ第1節横浜フリューゲルス戦で左サイドバックでJリーグデビューを飾る。
Jリーグ1年目は左の平岡、右の堀池巧が固定で起用され、リーグ戦25試合に出場を果たした。

しかし1994年は山田泰寛が起用されたため、出番が激減。
1995年は4月15日の第9節名古屋グランパス戦で先発出場を果たすも前半のみで交代。このシーズンはこの試合のみの出場に留まり、この年限りでエスパルスを退団。

1996年はJFLのコンサドーレ札幌へ移籍。
元ヴェルディ川崎のペレイラとセンターバックでコンビを組み、開幕スタメンを勝ち取るが徐々に出場機会は減りリーグ戦7試合の出場に留まり、コンサドーレは年間順位5位となりJリーグ昇格は果たせなかった。

1996年末にアルビレックス新潟の前身である北信越リーグのアルビレオ新潟へ移籍。
1998年はJFLへ昇格し、リーグ戦全試合に出場。リーグ戦順位は11位と低迷したが、新潟は翌年に開幕するJ2入りが承認。
そのため、新潟はチームを強化するため、26名の選手のうち17名との契約を打ち切ることになり、主力として活躍した平岡もこの年限りで退団し現役を引退することになった。

平岡宏章の引退後と現在

平岡は引退後、アルビレックス新潟に指導者として残り、1999年から2010年まで下部組織のコーチやアルビレックス新潟シンガポールの監督を務めた。

その後、2011年からは古巣の清水エスパルスで指導者となる。
2020年と2021年はシーズン途中から監督も務めた。

Jリーグ開幕当初、ロングスローが代名詞だったのは平岡宏章だけだった。

しかしその後、Jリーグでロングスローは戦術として用いられることは少なくなった。
コーナーキックと同様にゴール前までボールを入れられるのは魅力だが、ロングスローは蹴るボールと当然弾道も違うため、ボールに合わせるのは難しい。
また、ゴールキーパーにとっても取りやすいボールであるのは間違いないし、ロングスローを多用するには高身長でハイボールに強い選手も必要になる。
そういう意味でも、俊敏性や起動力が必要なJリーグではなかなか定着しづらかったのかもしれない。

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