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堀池巧の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第14回】

内田篤人や酒井宏樹など、有望な右サイドバックが生まれる中、日本の右サイドバックといえばこの人だった。

代表によばれた1986年から1995年までの9年間で実に58試合のキャップを踏んだ。

Jリーグ開幕当初の日本代表と、清水エスパルスのDFラインを支え続けた日本の右サイドバックに迫る。

 堀池巧のプロ入り前


堀池は1965年に静岡県清水市に生まれた。

幼い頃から、自然と側にサッカーがあった。

少年時代は地元清水のクラブに所属し、全国大会優勝を経験する。

その後、サッカーの名門である清水東高校へ進学。

後に清水エスパルスや日本代表で共にプレーをする長谷川健太や大榎克己と出会い、堀井を含めて清水東三羽烏とよばれた。

この頃、堀井は右ウイングを主な主戦場としていたがユース代表で右サイドバックにコンバートされる。

順天堂大学を経て1988年に読売クラブ(現東京ヴェルディ )に加入。

入団から4年連続で日本サッカーリーグのベストイレブンに選出される活躍をみせる。

そして1992年。

Jリーグ開幕に合わせて設立された地元の清水エスパルスに移籍する。

堀池巧のJリーグ入り後

清水エスパルスに移籍した堀池は右サイドバックの不動のレギュラーとして活躍。

初年度の1993年には清水エスパルスからたた一人、リーグベストイレブンに選出。

清水エスパルスには1998年まで在籍。

身長は173㎝と小柄ながら、当たり負けしない鍛え抜かれた身体で、オレンジ色のDF陣を支えた。

1998年途中にセレッソ大阪に移籍するも、1999年に再び清水エスパルスへ。

しかしそのシーズンは怪我の影響もあり、出場はできなかった。

堀池は1999年のシーズンでユニフォームを脱いだ。

 堀池巧の日本代表での活躍

堀池は順天堂大学在籍時の1986年から日本代表によばれ続けた。

そして1993年。

堀池はピッチの上でドーハの悲劇を経験する。

この時の日本代表は左サイドバックの都並敏史が左足首の骨折のため、不在。

急遽、普段はセンターバックを務める勝矢寿延(ジュビロ磐田)が穴を埋めようとしたが、再三にわたってイラクに左サイドを攻略された。

堀池は対戦したイラクについて後年こう語っている。

「運動量もテクニックもあるモダンなサッカーに走らされて、身体も心も追いつめられていった」

そしてロスタイムにコーナーキックからイラクのオムラム・サルマンにヘディングで同点ゴールを決められる。

手中に収まりかけた初のワールドカップ出場がするりとすり抜けていった。

堀池巧の引退後と現在

堀池は現役引退後、やべっちFCでのコメンテーターや、Jリーグの解説者として活躍。

その誠実な話ぶりと温厚な人柄で多くの人達に愛されている。

そして堀池は2013年にJFA公認のS級ライセンスを取得。

2014年に母校である順天堂大学のサッカー部監督に就任した。

右サイドバックのスペシャリストは、母校で後進の育成に力を注いでいる。

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