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浅野哲也の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第58回】

バイタルエリアから放たれる豪快なミドルシュートで得点を挙げることの多かった浅野哲也。

身長184センチという恵まれた体格を生かし、守備的MFながらセットプレーに強く攻撃の起点となることも多かった。

長短のパスの精度はチームでもトップレベルで、そのフィード力は横山謙三、ハンス・オフト、ファルカンなど多くの日本代表監督からも高く評価された。

長く中心選手としてプレーした名古屋グランパスではストイコビッチ、小倉隆史、平野孝、望月重良などの攻撃的な選手をサポートした。

浅野哲也に迫る。

浅野哲也のプロ入り前


浅野は1967年、茨城県鉾田市に生まれた。

鉾田町立野友小学校でサッカーを始め、鉾田南中学校に入学。

茨城県立鉾田第一高等学校でサッカー部に所属したが全国的な活躍は出来なかった。

高校を卒業後はトヨタ自動車へ就職。

トヨタ社内の同好会であるトヨタ蹴球団に所属していたがここでのプレーが認められ、1987年に社内で紹介され日本サッカーリーグのトヨタ自動車サッカー部に加入した。

トヨタ自動車加入1年目はリーグ戦1試合の出場に留まったものの、2年目から頭角を現し、3年目のシーズンは29試合に出場し、3得点を挙げ2部に在籍していたトヨタ自動車を1部に引き上げる原動力となった。

1991年には日本代表にも選出。同年のタイ戦でデビューを果たした。

当時の日本代表監督である横山謙三からは「最大の発見」と評価された。

1993年にはトヨタ自動車サッカー部を母体として発足した名古屋グランパスエイトに所属。
プロとしてのサッカー人生をスタートさせた。

浅野哲也のプロ入り後

Jリーグが開幕した1993年。浅野はボランチとして1年目のチームを支えた。

翌年1994年はレンタル移籍で浦和レッズに加入し、29試合に出場した。

そしてこの年、ファルカン監督により日本代表に選出。

広島県で開催されたアジアカップではオーストラリア戦で直接FKを豪快に決めるなど活躍した。

翌年は名古屋グランパスへ復帰し、浅野はリーグ戦50試合に出場。

同じポジションのデュリックスとダブルボランチを形成し、献身的な守備でストイコビッなどの攻撃陣の守備の負担を軽減した。

その後も名古屋グランパスではボランチとして活躍したが1999年に元日本代表の山口素弘が横浜フリューゲルスから加入。浅野は出場機会を減らし、同年はリーグ戦13試合の出場に留まった。

翌年はJリーグに昇格したばかりのFC東京に移籍。

リーグ戦出場はシーズンを通して8試合と少なかったものの、浅野はJリーグ経験の長いベテランとしてプロとしての在り方を示し、選手会を主導してクラブに働きかけるなど、若いチームにとって浅野の存在は非常に大きなものだった。

その後は2001年に当時J2の川崎フロンターレで1シーズンプレーし、その年限りで引退をした。

浅野哲也の引退後と現在

浅野哲也は引退後、堀越高校や国際学院高校のコーチを経て、2007年からは湘南ベルマーレでコーチを担当し2011年からはアビスパ福岡で監督を務めた。

2013年からは伊賀フットボールクラブくノ一で女子サッカーの監督をはじめ、鹿児島ユナイテッドFCやAC長野パルセイロで監督を務めた。

中村憲剛や柏木陽介など、今でこそ点の取れるボランチは主流となったが、Jリーグ創世記はボランチといえば地味なポジションで、守備を専門とする見方が強かった。

その中で浅野は高い守備能力の他にも、ミドルシュートやセットプレーで得点が計算できる貴重な選手だった。

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