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五十嵐和也の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第389回】

身長177センチながら、空中戦に強く、堅実な守備が持ち味のDF五十嵐和也。

JSL時代は古河電工、Jリーグではジェフ市原で活躍した。

1994年には頭部を負傷しながらも、頭に包帯を巻いたままプレーし、延長前半にリトバルスキーのフリーキックをダイビングヘッドで押し込み、Vゴールを決めた。

ジェフ退団後は関東リーグの横河電機サッカー部でプレー。ベテランとしてチームを牽引し、JFL昇格の原動力となった。

五十嵐和也のJリーグ入り前


五十嵐は1965年に岩手県に生まれた。

小学校でサッカーを始め、県内でサッカー選手権の出場回数が最多となる強豪の遠野高校へ進学。
五十嵐の2学年下に菊池新吉(ヴェルディ川崎)がいる。

遠野高校時代は、3年次に選手権に出場。
1回戦で岡山県代表の作陽を1-0で下し、2回戦では青森県代表の五戸を3-0で倒し、ベスト16に進出。
3回戦では山梨県代表の韮崎に0-1で惜敗した。韮崎には後に古河、ジェフでともにプレーする山本健二がいた。

1984年、高校卒業後にジェフの前身である古河電工サッカー部に入団。

1985年、清雲栄純監督のもとで入団2年目から出場機会を得る。この年は古河電工がJSLでシーズンを通して2敗しかしない圧倒的な強さを見せ、JSLを制覇。
得点王に吉田弘、新人王に越後和男、ベストイレブンに岡田武史、金子久、宮内聡、吉田弘、永井良和が選出されるなど活躍が目立った。
五十嵐自身もリーグ戦14試合に出場し、古河の躍進に大きく貢献した。

1986年には、古河の選手としてアジアクラブ選手権に出場。選手権は中1日で進むタイトなスケジュールであったが、古河は全勝し見事にアジアの頂点に立った。

1987年以降もセンターバックやサイドバックとして、古河のDFラインを支えレギュラーとして活躍した。

1992年、古河はJリーグ入りのために、チーム名をジェフ市原へ改称。五十嵐はジェフとプロ契約を結んだ。

五十嵐和也のJリーグ入り後

1992年、Jリーグ前年に開催されたヤマザキナビスコカップでは開幕戦からベンチ入りを続けるも、なかなか出番は訪れなった。
第7節横浜フリューゲルス戦で背番号3を背負い、センターバックとして初出場を果たして1-0の勝利に貢献。
最終節の清水エスパルス戦にも途中出場したが、カップ戦はこの2試合のみの出場に留まった。

1993年、Jリーグが開幕。
ジェフには宮澤ミッシェル、サンドロ、阪倉裕二吉田暢影山雅永宮沢浩など実力のあるDFが揃っていたため、なかなか出場機会は訪れなかった。
NICOSシリーズから出場機会が増えるも、このシーズンはリーグ戦7試合の出場に留まった。

1994年、清雲栄純が監督に就任するとレギュラーに定着。開幕戦のガンバ大阪戦からスタメンで出場しJリーグ初ゴールを奪う。
4月27日の第12節横浜フリューゲルス戦では延長前半にVゴールを決め、勝利の立役者となった。このシーズンはキャリアハイとなるリーグ戦36試合に出場した。

1995年はヘルニアの手術の為に出遅れるも、NICOSシリーズから復帰。第5節横浜フリューゲルス戦では先発出場し1-0で勝利。
クリーンシートに貢献した五十嵐はマンオブザマッチに選出されている。

1996年は茶野隆行鈴木和裕ら若手の台頭もあり出場機会が減少。リーグ戦14試合の出場に留まり、この年限りで古河時代から13年在籍したチームを退団した。

1997年からは関東リーグの横河電機サッカー部でプレー。
ベルマーレのエジソンや浦和レッズの鈴木慎吾、横浜マリノスの島田周輔、ヴェルディ川崎の山口高志らとチームを支え、加入初年度に関東リーグで優勝を果たす。
1999年にはJFLに昇格し、JFLで2年間プレーし現役を引退した。

五十嵐和也の引退後と現在

五十嵐は引退後、指導者に転身。
横河電機のコーチを務めた後、成立学園高校の監督を長らく務めた。

現在は成立ゼブラフットボールクラブで監督を務めている。

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