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菊池新吉の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第56回】

ハイボールに強く、安定したプレーでヴェルディ川崎の黄金時代を支えたGK菊池新吉。

1993年にはシーズンを通して16試合完封勝利を挙げたが、この記録は未だに破られていない。

菊池新吉は日本代表にも選出され、1994年のファルカン体制で臨んだアジア大会で正ゴールキーパーを務めた。

しかし菊池新吉の生い立ちは決して平坦ではなく、プロ生活においても怪我との戦いだった。

不屈の闘志と努力の男、菊池新吉に迫る。

菊池新吉のプロ入り前


菊池新吉は1967年に岩手県遠野市に生まれた。

菊池は幼くして父を亡くし、牛乳配達や新聞配達をして家計を助けるほどの苦労をしていた。

本格的にサッカーを始めたのは小学校4年生の時。

生まれ育った遠野市はサッカーが盛んな街で、菊池の兄がサッカーの名門である遠野高校でプレーしていたのがきっかけだった。

菊池は小学校ではDFをしていたが、遠野中学校に進学した際にGKが1人しかいなく、GKをやってみないかと誘われ、中学校からGKを始める。

しかし前述の通り、経済的に恵まれなかった菊池は自分のスパイクが持てず、コーチにスパイクを借りてプレーをしていた。

中学時代は陸上部に借り出されて短距離、走り幅跳び、走り高跳びなどでも市の大会で1、2位を争うなど幼い頃から運動神経の高さを見せていた。

高校は遠野高校へ進学。

高校3年時には第62回全国高校サッカーに出場。

3回戦で山梨県の韮崎高校に敗れるも、菊池は大会優秀選手に選ばれた。

なお、この62回大会は堀池巧大榎克己前田治武田修宏長谷川健太など後の日本代表選手を多く輩出した。

菊池は高校を卒業後、読売サッカークラブへ入団する。

菊池は日本サッカーリーグ1部のトップに君臨する読売サッカークラブに入団した後、ルーキーながら1年目からリーグ戦22試合に出場する。

その後も藤川孝幸と激しいポジション争いをしながらも、1992年にサッカーがプロ化するまで菊池は正GKであり続けた。

菊池新吉のプロ入り後

1993年のJリーグ開幕後も菊池はヴェルディの正GKとして君臨。

1993年にはシーズン16完封のJ1記録(2009年、FC東京の権田修一が並ぶ)を記録し、初代Jリーグ王座に貢献。

1994年、1995年には2年連続でJリーグベストイレブンに選出された。

この活躍が認められ、1994年にはファルカン監督から召集を受け1994年のオーストラリア戦で日本代表デビューを果たす。

同年に開催されたアジアカップには日本代表の正GKとして全試合に出場した。

しかし度重なる怪我の影響もあり、1995年以降は前川和也下川健一というライバルの控えに回る事が多く、川口能活という若手GKの台頭もあり日本代表としては7試合の出場に留まった。

ヴェルディには1999年まで在籍し、2000年に川崎フロンターレへ移籍。

川崎フロンターレでは1年間プレーし、翌年ヴェルディに復帰するもこの年限りで引退をした。

菊池新吉の引退後と現在

菊池は引退後、GKコーチへ転身。

ヴェルディやU16日本代表、栃木SCのGKコーチを歴任し、川崎フロンターレのGKコーチを務めた後、2022年よりサンフレッチェ広島のGKコーチに就任している。

菊池新吉は母ひとりの手で育てられる環境の中、小学校2年生から牛乳配達や新聞配達で家計を助けた。

あるインタビューで当時の状況について菊池はこう語っている。

「(当時の状況は大変だったのではないか?)いや、馴れているからそれほどでも。でも、田舎だから家と家の間が離れているんです。それで小学校の近くの家には登校の途中でいれたりして・・・今思うと遅くなってしまったなと。」

北国のまだ暗闇のはれぬ冬の朝、幼い子供にとって過酷な環境であっただろう。

しかし菊池は自分の置かれた環境の苦労は話さず、新聞を待っている人々への気持ちを口にした。

菊池新吉の人となりが分かるエピソードだ。

置かれた環境に屈せず、日本を代表するGKまで上り詰めた菊池新吉。

菊池新吉の魂は若い世代へ継承されていく。

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