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吉田暢の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第388回】

吉田暢はサイドバック、センターバック、ボランチなど守備的ポジションならどこでも対応できるユーティリティプレーヤーだ。

JSLの古河電気工業サッカー部時代は、主力としてアジア選手権で優勝を達成し、日本のクラブとして初めてアジアチャンピオンになった。

ジェフでは派手さはなくとも守備の要としていぶし銀の活躍を見せた。

吉田暢のJリーグ入り前


吉田は1965年に岩手県の紫波町に生まれた。

小学校でサッカーを始め、紫波第一中学校に進学後、サッカー部で活躍。

盛岡商業高校に進学後、高校2年に選手権に出場。
1回戦で広島工業をPK戦の末に下し、2回戦では鹿児島実業を1-0で倒すも、準々決勝で山梨の韮崎に1-2で敗れている。

吉田は高校卒業後の1984年、ジェフ市原の前身である古河電気工業サッカー部に入団する。

1986年にはアジアクラブ選手権に出場。
清雲栄純監督のもとで、吉田はサイドバックで活躍。岡田武史、奥寺康彦、越後和男らとチームを支え、古河は日本のクラブとして初めてアジアチャンピオンになった。

その後も吉田は古河一筋でプレー。JSLでは通算83試合に出場し2ゴールの成績をおさめた。

吉田暢のJリーグ入り後

1992年、Jリーグの前年に開催されたヤマザキナビスコカップの第1節浦和レッズ戦でベンチ入りし、後半38分に中西永輔と交代で出場、ジェフでのデビューを飾り、試合も3-2で勝利を収めた。
その後も主にボランチとしてカップ戦7試合に出場した。

1993年、Jリーグが開幕。
開幕戦であるサンフレッチェ広島戦で、3バックの1角としてスタメン出場を果たすも、風間八宏小島光顕にゴールを決められ1-2で敗れている。

現在のように固定番号制ではなかったため、吉田は1993年だけで「2」「3」「5」「6」「8」と、5種類の番号を背負ってプレー。
サイドバックやストッパー、ボランチなど守備的なポジションのユーティリティプレーヤーとして活躍し、リーグ戦26試合に出場した。

1994年は、リトバルスキーマスロバルオルデネビッツの後ろに位置し、守備の要として相手の攻撃の芽を摘む役割を担った。
リーグ戦17試合に出場し、中心選手として活躍するも、ジェフは2年連続で下位に沈み、吉田はこの年限りでジェフを退団した。

1995年、JFLのブランメル仙台へ移籍。
仙台は元ヴェルディの阿部良則山口貴之や、ブラジル代表として6試合の出場経験があるエジマール、ポルトガル1部リーグでプレーしていたブラジル人MFエンリケなどをようしていた。
7月からチームに加入した吉田は後半戦のほとんどに出場したが、チームは16チーム中15位に沈んだ。

1996年は背番号2を背負った。この年は影山雅永、フランタ、越後和男阪倉裕二、岸本浩右、リトバルスキーオルデネビッツなど元ジェフの選手も多く、連携のとれたプレーを見せ、リーグ戦25試合に出場し、チームも6位に浮上した。

1997年も仙台と契約するも、リーグ戦9試合の出場に留まり、32歳で現役を引退した。

吉田暢の引退後と現在

吉田は引退後、指導者に転身。

1998年からソニー仙台でコーチ、監督を務め、2006年から2011年まで地元のチームであるグルージャ盛岡で監督を務めた。

その後も岩手に残り、同郷の佐藤大実(サガン鳥栖など)が社長を務める太陽光発電と農業を両立する会社「株式会社オービットワン」に入社し、スポーツ事業部の社員として、昼間は農作業に従事し、夕方から少年サッカーの指導を行っている。

S級ライセンスを取得している吉田暢。

地元・岩手県から新たなJリーガーを誕生させるべく、今日も熱い指導を行っている。

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