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アモローゾの現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第495回】

「必ず大物になって見返してやる」

Jリーグ公式戦出場がゼロのまま、1993年に日本の地を離れた若者は、この言葉を残してから6年後、見事に雪辱を晴らすことになる。

1999年3月31日。国立競技場で行われたキリンカップ「日本対ブラジル戦」。

伝統の黄色のユニフォームに身をまとったカナリア軍団。
カフー、リバウド、ジュニーニョ、エメルソン。そうそうたるメンバーの中にその男はいた。

マルシオ・アモローゾ・ドス・サントス。通称「アモローゾ」。
1992年に助っ人外国人として来日するも、ヴェルディ川崎で出場機会を得られずに戦力外通告を受けた。
プライドをへし折られ、ブラジルへの帰国を余儀なくされた男は、翌年にブラジルリーグで得点王になり、ブラジル代表に選出。
1996年にはイタリアに渡り、1998年にセリエAで得点王に、2001年シーズンはブンデスリーガで得点王に輝いた。

サッカー未開の地で屈辱を受けてから6年後。
あの時、立つことのできなかった満員の国立競技場で、アモローゾは日韓ワールドカップ開催を前に浮足立つ日本代表に、世界との差を突き付けるゴールを決めてみせた。

アモローゾのJリーグ入り前


アモローゾは1974年にブラジルのブラジリアに生まれた。
叔父にボタフォゴとフルミネンセでプレーしたホセ・アモローソ・フィーリョがいる。

13歳の時に地元のアマチュアクラブでサッカーを始め、地元の高校に入学後、入団テストを受けグアラニFCに所属した。
早くから頭角を現すと、パウリスタ州のU-17得点王に輝き、グアラニU-20のチームでプレーをするようになる。

順調にキャリアを重ねていた1992年、19歳になったアモローゾは、Jリーグ開幕を前に新たな外国人ストライカーを探していたヴェルディ川崎のペペ監督(ジョゼ・マシア)に見いだされ、日本行きを決意する。

アモローゾのJリーグ入り後


1992年に来日したアモローゾだったが、レンタル移籍で加入したヴェルディ川崎には、同時期にグアラニFCから加入したセンターバックのペレイラ、元ブラジル代表のDFダビ、ブラジル人FWパウリーニョ、フェレイラがいた。
外国人枠は3人しかなく、まだ実績のないアモローゾにはチャンスは訪れず、同年行われたJリーグカップには出場することが叶わなかった。

1993年、Jリーグが開幕する。
ヴェルディ川崎はそれまでのブラジルスタイルからヨーロッパスタイルへとスタンス変更を模索し、オランダ人DFイェーネ・ハンセン、ロッサム、オランダ人FWヘニー・マイヤーを獲得。
更にブラジル人MFパウロ、元ブラジル代表ビスマルク、韓国人FWキム・サンジュンを獲得。所属する外国人は9人となり、3枠しかない外国人枠を争うことになった。

またFWには三浦知良、武田修宏戸塚哲也藤吉信次阿部良則といった実力者が揃っていたため、アモローゾにとっては厳しい状況が続いた。

Jリーグが開幕すると、大方の予想通り、ヴェルディ川崎は躍進する。
1stステージこそ2位に甘んじるも、2ndステージは優勝。
年間王者を決めるJリーグチャンピオンシップでも鹿島を破り、初代Jリーグ年間王者となった。またナビスコ杯も2連覇を果たした。

アモローゾは華々しい活躍を続けるチームメイトとは対照的な生活を送っていたが、黙々と練習を続ける。
次第に日本のサッカーに順応すると、サテライトリーグでは得点を量産し、サテライトリーグ初代得点王に輝いた。
また同年、U-20ブラジル代表に選出されるとワールドユース選手権で優勝を果たす。

1993年シーズン終了後、レンタル期間満了によりヴェルディ川崎を退団。
アモローゾは公式戦出場がないままブラジルに帰国することになった。

その後のアモローゾの活躍

1994年にグアラニに復帰したアモローゾは、日本での鬱憤を晴らすかのように結果を出し続ける。
ルイゾンとの強力な2トップを形成すると、リーグ戦26試合で19ゴールを決め、ブラジル代表トゥーリオ・マラヴィーリャと並んで全国選手権1部得点王に輝くととともにこの年のブラジル最優秀選手に輝いた。
この活躍を受けアモローゾの評価は一気に上がる、1995年には強豪フラメンゴでプレーし、同年には初めてブラジル代表に選出された。

1996年にはイタリア・セリエAのウディネーゼへ移籍。
ウディネーゼでは後の日本代表監督となるアルベルト・ザッケローニのもとで攻撃の中心として活躍。
ドイツ人ストライカービアホフとの2トップで得点を量産。
1998年にビアホフはACミランへと移籍したもののアモローゾの活躍は止まらず、リーグ戦33試合で22ゴールを決めセリエA得点王に輝いた。

1999年にはセリエAのパルマへ3,000万ユーロという高額で移籍し、同年のスーパーカップのタイトル獲得に貢献した。
パルマではアリエル・オルテガやクレスポ、カンナヴァーロ、テュラム、ブッフォンといった面々とともにプレーした。

同年にはブラジル代表に定着。3月31日のキリンビバレッジサッカー・日本対ブラジル戦では6年ぶりとなる来日を果たし、前半12分に先制ゴールを決める。
その後にエメルソンが決め、2-0での勝利に貢献した。
この年のコパ・アメリカには、背番号7を背負い、怪物ロナウドとの2トップで活躍。
準決勝で半月板を損傷するも6試合で4ゴールを決め、ブラジルの6回目の優勝の立役者となった。

2001年にはドイツ1部リーグのボルシア・ドルトムントへ2,500万ユーロで移籍。
ドルトムントでは入団1年目に、リーグ戦31試合で18ゴールを決め得点王に輝き、チームの優勝に貢献した。
しかし2002年は不調に陥り、リーグ戦24試合で6ゴールに留まる。2003年も怪我のためにリーグ戦4試合の出場に留まるとこの年をもってドルトムントを退団した。

2004年はスペイン1部リーグのマラガCFへ移籍しコンスタントに出場機会を得るも、膝の怪我の影響により1年でチームを退団した。
その後はブラジルに戻り、サンパウロFCへ移籍。
サンパウロではエースとして活躍し、リベルタドーレス制覇に貢献。
同年、日本で開催されたクラブワールドカップではリバプールを下し優勝に輝き、同大会の得点王になった。
優勝後のセレモニーでは「一番」と日本語で書いたハチマキを巻き、日本のファンに挨拶をした。

2005年にはモナコに移籍したクリスチャン・ヴィエリの後任としてACミランへ移籍。
しかしミランでは怪我の影響もありリーグ戦4試合の出場に留まると、2006年に契約を解除しブラジルのコリンチャンスへ移籍。

その後、ブラジルのグレミオ、ギリシア1部のアリス・テッサロニキ、そしてキャリアをスタートさせたグアラニでプレーし2009年に現役を引退した。

アモローゾの引退後と現在

アモローゾは現役引退後、実業家に転身。
スマートフォンのアクセサリー販売会社の経営や建設業、不動産業にも携わるなど多岐にわたって活躍している。
スポーツ専門チャンネルESPNのサッカー解説者としても活動をしている。

また2016年にはアメリカに渡り4部リーグのボカラトンで一時的に現役復帰を果たしたが、その後は事業に専念している。

Jリーグでスポットライトを浴びることはなかったが、その後はブラジル、イタリア、ドイツという世界主要リーグで得点王に輝いたアモローゾ。

アモローゾは後年、日本について聞かれたインタビューでこう語っている。

「あの期間はアスリートとしてだけでなく人間としての成長に大きく役立った。日本にとても感謝しています。」

まだ体の線が細く、プロ選手としても成熟していなかった1993年のアモローゾは、華々しく開幕したJリーグをどんな気持ちで見ていたのだろう。そして日の出をみないままに日本を去った若者がこのようなスターダムを駆け上がることを誰が予想しただろうか。

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