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山田泰寛の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第384回】

清水エスパルスの初期の左サイドバックとして活躍した山田泰寛。

献身的なプレーが持ち味で、スピードに乗ったオーバーラップで抜け出すと正確なクロスを供給した。

清水エスパルスで活躍後、大学サッカー部で監督として指導者の道を歩むも、病気のため45歳の若さでこの世を去った。

山田泰寛のJリーグ入り前


山田は1968年に広島県広島市に生まれた。

小学校でサッカーを始め、広島大河フットボールクラブに入団する。

山田の2学年下に平沢政輝、吉田康弘(鹿島アントラーズ)がいる。

中学校卒業後、静岡県の東海大学第一高校へ進学。
山田の同学年に杉本雅央(清水エスパルス)、1学年下に三渡洲アデミール(清水エスパルス)、内藤直樹(清水エスパルス)、大嶽直人(横浜フリューゲルス)がいる。
当時の静岡は激戦区となっており、同年代に選手権には、江尻篤彦真田雅則がいる清水商業や、武田修宏がいる清水東、中山雅史がいる藤枝東などがひしめいており、選手権には出場できなかった。

山田は高校卒業後、早稲田大学に進学し、同大学ア式蹴球部に入部した。同学年に松山博明(ベルマーレ平塚)、1学年下に奥野僚右(鹿島アントラーズ)、曹貴裁(柏レイソル)がいる。
同年、山田はU-20サッカー日本代表に選出されAFCユース選手権1次予選に出場するも予選で敗退している。

早稲田大学卒業後、JSL1部のヤンマーディーゼルサッカー部に入団する。

山田泰寛のJリーグ入り後

1990年、ヤンマーに入団した山田は吉村大志郎監督の元で初年度から出場機会を掴んだ。
リーグ戦14試合に出場するも、ヤンマーは12チーム中11位に沈み、JSL2部に降格。

1992年、翌年にJリーグが開幕することもあり、山田は清水エスパルスへ移籍。

開幕前年に開催されたヤマザキナビスコカップには第1節からベンチ入りを続けるも、本職の左サイドバックには平岡宏章が起用されたため、なかなか出場機会はなかった。
第9節ジェフ市原戦で。累積警告のために出場停止となった平岡宏章の代わりに先発出場し、勝利に貢献。
翌節の準決勝名古屋グランパスエイト戦にも出場したが、決勝のヴェルディ川崎戦には出場できなかった。

1993年、Jリーグが開幕。
Jリーグ初年度は平岡宏章が起用され、山田はリーグ戦3試合の出場に留まった。

1994年は開幕戦の横浜フリューゲルス戦で左サイドバックとして先発すると勝利に貢献。
その後も起用され続け、キャリアハイとなる26試合に出場した。

1995年、監督がリベリーノから宮本征勝に交代すると、出場機会が激減。OPEL CUP 95ではバレージや、デザイーらスター選手をようするACミランと対戦したがこの試合では左サイドバックとして先発し、持ち味である裏への抜け出しを幾度も見せ、スタジアムを沸かせた。

しかし、リーグ戦は2試合の出場に留まり、この年限りで現役を引退した。

山田泰寛の引退後と現在

山田は引退後、指導者に転身。
1996年から、現役時代を過ごした清水エスパルスのコーチとして下部組織を指導した。

2000年からは東海大学リーグに所属する常葉大富士サッカー部の監督に就任。
非常勤講師として授業も受け持つなど、精力的に活動していたが、2013年に肝臓がんのため他界した。

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