ジュビロ磐田黄金期を支えた守備のスペシャリスト山西尊裕。
左足の正確なキックと堅実な守備で数多くのタイトル奪取を経験した。
小学校時代から数多くの全国大会で活躍し、U-20日本代表では日本のベスト8進出に貢献した。
現役晩年は清水エスパルスに在籍し、左サイドバックとして攻撃のアクセントとなった。
山西尊裕のJリーグ入り前
3つ上の兄の影響で物心ついたころにはボールを蹴り始める。
清水袖師小学校時代は、静岡市の小学生サッカークラブチームの主力選手を集めた選抜チームである清水FCに入り、レギュラーとして活躍した。
清水FC時代は全国大会を数多く経験した。6年次には第2回全国少年少女草サッカー大会では大会優秀選手に選出されている。
また、全日本少年サッカー大会では主力として準優勝に貢献した。
清水FC時代の同級生には西澤明訓(セレッソ大阪)がおり、西澤のニックネームである「ニッコ」は山西が命名したものである。
小学校卒業後、清水市立袖師中学校に進学。山西の2学年上に伊東輝悦(清水エスパルス)がいる。
全日本ユースサッカー選手権大会で3位に入る原動力となった。
高校は名門である静岡県立清水東高等学校へ進学。
同級生に西澤明訓(セレッソ大阪)、1学年下に中払大介(アビスパ福岡)、2学年下に山崎光太郎(名古屋グランパス)がいる。
1年次から背番号14を背負い、左サイドバックとして活躍。
インターハイに出場しベスト4入りを果たした。
選手権には1度も出場できなかったが、1年次から3年連続で静岡県選抜に選出され、安永聡太郎、西澤明訓、久保山由清、佐藤由紀彦らとともに活躍し国体で3度の優勝を果たしている。
また高校3年次には全日本ユース代表に選出され、1994年にインドネシアのジャカルタで開催されたAFCユース選手権に出場。
中田英寿、大木勉、安永聡太郎、大森健作、山田暢久、田中誠、松田直樹、本田征治、伊藤卓らとともにプレー。
山西は本職のSBではなくボランチとしてチームを支え、準優勝に貢献した。
1995年、高校卒業後、ジュビロ磐田へ入団する。同期入団に福西崇史、清水範久がいる。
山西尊裕のJリーグ入り後
1995年にジュビロ磐田に入団した山西だったが、入団2年間はジュビロでの出場機会はなかった。
だが、入団1年目にカタールで開催されたワールドユース選手権に選出され、左ウイングとして活躍。
日本のベスト8進出に貢献した。
1997年3月8日、ヤマザキナビスコカップ第1節横浜フリューゲルス戦で公式戦初出場を果たすと、リーグ戦の開幕試合であるサンフレッチェ広島戦でも起用される。
その後も不動の左サイドバックとして起用され、2ndステージ 第4節セレッソ大阪戦では公式戦初ゴールを記録し4-1での勝利に貢献した。
この年は山西にとって飛躍の年となり、リーグ戦26試合に出場し、ジュビロはJリーグ年間チャンピオンとなった。またカップ戦は全試合に出場し準優勝に貢献した。
1998年以降は服部年宏や大岩剛ら日本代表クラスの選手が起用されたため、出場機会を減らす。
山西は本職の左サイドバックだけでなく、右サイドバックやセンターバックとしても起用されるようになり活路を見出しジュビロの黄金期を支えた。
2002年はリーグ戦24試合に出場し、ジュビロのJリーグ年間チャンピオンに貢献。
2005年からは同じ静岡の清水エスパルスへ移籍。
長谷川健太監督のもとで開幕戦のサンフレッチェ広島戦から左サイドバックとしてポジションを掴むと、左の山西、右の市川大祐で清水の両翼を支えた。
移籍1年目はリーグ戦全試合に出場した。
2006年はキャプテンを務め、リーグ戦32試合に出場した。
2007年以降は若手の台頭もあり、出場機会を大きく減らした。
またこの年セレッソから西澤明訓が加入し、U20日本代表以来の同チームでのプレーを経験した。
2008年は開幕戦からベンチ入りを続け、リーグ戦7試合に出場。
この年限りで現役を引退し。14年間のプロ生活に終止符を打った。
山西尊裕の引退後と現在
山西は引退後、ジュビロ磐田の下部組織で指導者としてのキャリアをスタート。
2013年からは常葉大学浜松キャンパスサッカー部の監督に就任した澤登正朗から誘いを受けてコーチを務め、2022年からは監督としてチームを率いている。