2列目からの裏への抜け出しと、キレのあるドリブルで攻撃のアクセントとなったFW大柴克友。
Jリーグ入り後のヴァンフォーレ甲府「初代背番号10」として活躍後、ジェフやベガルタでプレー。
セカンドストライカーとしての活躍だけでなく、大柴の最前線からの積極的な守備はショートカウンターを狙うジェフの戦術に必要不可欠な存在であった。
晩年に所属したベガルタ仙台では最年長選手としてチームを牽引。
ベテランながら労を惜しまないプレースタイルと、最後まであきらめない姿勢でチームを引き締めた。
大柴克友のJリーグ入り前
小学校の時にサッカーを始め、須玉町立須玉中学校サッカー部で活躍。小学校、中学校、高校の同級生に仲田健二(ヴァンフォーレ甲府)がいる。
中学校卒業後、山梨県立韮崎高等学校へ進学。
同級生に仲田健二、2学年上に坂本武久(ヴァンフォーレ甲府)、堀井岳也(ヴァンフォーレ甲府)がいる。
高校1年次に選手権に出場。1回戦で玉野光南を1-0で破るも2回戦で北陽に0-1で敗れている。
高校3年次に選手権に出場。1回戦で小倉隆史(名古屋グランパス)、中西永輔(ジェフ市原)、中田一三(横浜フリューゲルス)らがいる四日市中央工と対戦し0-1で敗れている。
また高校3年次には山梨県選抜に選出され国体に出場している。
高校卒業後、明治大学へ進学。
同学年に塚本秀樹(アビスパ福岡)、1学年上に内田利広(名古屋グランパス)、永田崇(京都パープルサンガ)、1学年下に浅利悟(FC東京)がいる。
大学時代は攻撃的なMFとしてチームを牽引し、総理大臣杯ベスト4入りに貢献した。
大学卒業後、JFLのヴァンフォーレ甲府に入団する。
甲府では1年目から出場機会を掴みリーグ戦15試合に出場する。
2年目にはFWとしてレギュラーとしてフル稼働。リーグ戦26試合中24試合に出場し9得点をマークしチームの得点源として活躍した。
1998年に甲府はJリーグ加盟が承認され、1999年からのJリーグ ディビジョン2(J2)参加が決まった。
大柴克友のJリーグ入り後
1999年、甲府はJリーグ1年目を迎える。
大柴は甲府がJリーグに加盟してからの初代10番を背負い、全試合に出場。
3トップの1角として7得点を奪う活躍を見せるが、甲府はシーズンを通して僅か4勝しかできず最下位となった。
2000年、大柴はJ1のジェフ市原に移籍。
背番号9を背負い、セカンドストライカーとして攻撃の起点となった。
加入初年度はリーグ戦22試合に出場し2得点に留まるも、2年目には韓国代表の崔龍洙(チェ・ヨンス)と息の合ったコンビで得点を量産。
リーグ戦30試合すべてに出場し9ゴールを記録した。
2002年も和多田充寿や林丈統らととも攻撃を牽引。得点だけでなく、最前線からの守備を積極的に行いオフザボールの場面でも存在感を見せた。
2004年にJ2のベガルタ仙台へ移籍。
佐藤寿人、ファビオ・ヌネスの後ろに位置し、運動量豊富なMFとして活躍。
2005年にはキャリアハイとなる自身初なるリーグ戦10得点を決めた。
また2000年にジェフでともにプレーしたバロンとの絶妙なコンビネーションで数々のゴールを演出した。
2006年、チーム最年長選手としてピッチ内外でチームを牽引。リーグ戦14試合で1ゴールの成績を残し現役を引退した。
大柴克友の引退後と現在
大柴は引退後、ミズノサッカースクールで指導者としてセカンドキャリアをスタート。
その後は古巣であるジェフ千葉のU-15アシスタントコーチを務め、2011年からはヴァンフォーレ甲府でコーチを務めている。
大柴は現役時代、チームにとって何が必要か考えて実践できる選手であった。
ベテランの年齢になっても、落ちることのない運動量で、緩んだプレーにはたとえ外国人選手にでも檄を飛ばす。
そして勇気をもってゴール前の密集地帯にも身体を投げ出して飛び込んでいくスタイルは若い頃と何も変わらなかった。
ベテランとしてチームに必要な要素をすべて持っており、文字通り精神的支柱として若いチームを支えた。
言葉でなくプレーで牽引できるベテラン選手の存在価値は非常に高い。