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中田一三の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【308回】

四日市中央工業高校時代は、小倉隆史、中西永輔、中田一三の3人で「四中工三羽烏」と呼ばれ、同年代では屈指の守備力を誇った中田一三。

高校時代はゲームメーカーとしてチームを牽引。主将として選手権優勝を経験した。

高校卒業後、プロ入りし、12年間のプロ生活を送る中で6チームに在籍。正確なパスとタイミングの良い攻め上がりを生かしたサイドバックとして活躍した。

度重なる怪我もあり、一年を通して活躍できたシーズンは少なかったが、現役晩年は、これまで在籍したチームで降格争いを耐えてきた経験を活かし、精神的支柱としてチームを支えた。

中田一三のJリーグ入り前


中田一三は、1973年に三重県伊賀市に生まれた。

小学校4年生の時に、兄の影響でサッカーを始めた。 小学校6年時に、プロリーグができるという噂を指導者から聞き、プロを志すようになった。

中学校時には三重県選抜に入るなど、頭角を現す。中学校3年時には、小倉隆史とともに、三重県内の強豪である四日市中央工業の練習に参加。県外遠征にも参加するようになる。

四日市中央工業に入学後は、椎間板ヘルニアを発症し手術を経験するも1年時からレギュラーを掴み、3年連続で全国高校サッカー選手権大会に出場する。

同級生の中西永や小倉隆史とともに「四中工三羽烏」と称され、注目を集めた。高校3年時には主将として、エース松波正信を擁する帝京高校との決勝戦に挑む。2-2から延長戦に突入するも決着はつかず両校同時優勝となった。

高校卒業後、プロ入りを希望していた中田は、オファーのあった横浜フリューゲルスへ入団する。

中田一三のJリーグ入り後

プロ入り後、DFにコンバートされた中田は、1993年11月6日1stステージ第10節ジェフ市原戦でJリーグデビューを飾る。

デビュー戦は延長戦までもつれ込む試合となったが、エドゥーのゴールで見事に2-1で勝利を掴んだ。ルーキーイヤーはリーグ戦5試合の出場に留まったが、プロ2年目の2ndステージ後半からレギュラーを掴むと2年目はリーグ戦14試合に出場した。

1996年からはアビスパ福岡へ移籍。 加入1年目はレギュラーとして24試合に出場するもアビスパは年間順位が16チーム中15位と沈む。2年目も開幕戦からレギュラーとして出場を続けるもアビスパは開幕から4連敗を喫するなど精彩を欠き、中田はじょじょに出場機会を減らしていった。

1998年はJFLの大分FC(現大分トリニータ)へ移籍し、1シーズンプレー。

1999年からはJリーグへ復帰しジェフ千葉へ加入した。ジェフでは正確なパスでサイドバックとしてレギュラーに定着。2000年3月11日の開幕戦である京都パープルサンガ戦では待望のJリーグ初ゴールをマークした。

2001年は大分に復帰。リーグ戦18試合に出場した。

2002年はベガルタ仙台へ移籍するもシーズン前の怪我によりリーグ戦出場は無かった。翌年もリーグ戦6試合の出場に留まりこのシーズン限りで仙台を退団。

2003年は半年間の契約でヴァンフォーレ甲府へ入団。契約満了のため、退団しそのまま引退を表明した。

中田一三の引退後と現在

中田は現役引退後、2005年に中田一三サッカースクールを開校。

2007年から2009年伊勢ペルソナFCの監督を務め、2013年からは三重県中南勢地域を本拠地に置くFC.ISE-SHIMAの監督を務めた。

2018年12月に、J2の京都サンガF.C.の監督に就任。シーズン中盤までは上位へ食い込み、最終節の柏レイソル戦までプレーオフ進出の望みを繋いだが、レイソル戦はJリーグ記録となる1-13という記録的な大敗を喫してしまった。

2019年11月28日、契約満了により1年で京都の監督を退任した。

中田は現役クラブの監督としては珍しく、シーズン中、ツイッターを通じてメッセージを発信した。

時にはその発言が物議を醸すこともあり、チームの調子が上がらないときは批判の矢面に立つこともあったが、個人的にはとても良い試みだと思っている。

監督が今、どのようなことを考えているのか、メディアというフィルターを通さずに直接、言葉聞けるという事は距離感という意味でも重要であると思う。

残念ながら、中田一三の1年目の挑戦はリーグ戦8位に終わったが、来季へ繋がる可能性を十分に感じることができた、そんなシーズンであったと感じる。それだけに1年での退任は残念でならない。

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