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小倉隆史の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第269回】

怪我がなければ違うサッカー人生になっていたのか想見される選手は多いが、チームや国をも巻き込んで想像される選手は決して多くない。

小倉隆史。レフティーモンスターと呼ばれ将来の日本サッカーを支える逸材として期待された男。

全国高校サッカー選手権で異次元のプレーを見せ全国制覇を達成すると、オランダのエクセルシオールで得点王争いを演じる。満を持して帰国すると若干20歳で日本代表に抜擢され、日本のエース三浦知良とツートップを組みフランス戦で代表初ゴールを決めた。所属する名古屋グランパスではピクシーことストイコビッチと強力かつ華麗なコンビネーションで得点を量産する。

物怖じしない性格、繰り出されるファンタジックなプレー。我々は新たなスターの誕生を予感した。

卓越した技術をベースとしたイマジネーション溢れるドリブル、振りが短いのに強烈なシュート、激しい当たりにも崩れない体幹の強さ、小倉隆史は初期のJリーグで別格のセンスを持ったプレーヤーだった。

あの怪我がなければ世界へ羽ばたいた最初の日本人プレーヤーは小倉隆史だったのかもしれない。

小倉隆史のJリーグ入り前


小倉は1973年、三重県鈴鹿市に生まれる。

小学校1年の夏にサッカーを始め、7歳の時に白子サッカー少年団へ所属する。

当初体を鍛えることを目的に入団するが、3年生の時には6年生に交じりAチームでプレー、6年生ではキャプテンを任された。試合ではキックオフゴールを決めるほどシュート力があった。小倉は練習方法を自ら監督に提案したり卒業文集の将来の夢はプロサッカー選手になりたいと書くほど次第にサッカーに夢中になっていった。

鈴鹿市立鼓ヶ浦中学校卒業後、四日市中央工業高校へ進学。同級生に中西永輔中田一三がおり「四中工三羽烏」と呼ばれ、左足から繰り出されるパワフルなシュートを武器にサッカー部を牽引した。

高校3年で出場した全国高等学校サッカー選手権では、松波正信らがいた帝京高校との決勝で1点を追う終盤、執念のダイビングヘッドで追い付き、出場15度目の母校に初の優勝をもたらした。(両校同時優勝)

高校卒業後、数多くきたオファーを受け、名古屋グランパスエイトエイトに入団する。名古屋への入団の決め手となったのは海外留学の合意であった。

小倉隆史のJリーグ入り後

小倉は名古屋入団後、Jリーグ開幕前の1992年のJリーグカップで10試合に出場し5得点を挙げるという新人離れした活躍を見せる。

その後、開幕を前にオランダに渡る。最初の半年はオランダ1部リーグの名門フェイエノールトで練習に励んだ。

当時のフェイエノールトのGMを務めていたビム・ヤンセンからの紹介でオランダ2部リーグのエクセルシオールへレンタル移籍。

シーズン途中の加入ながら小倉はゴールを量産。リーグ戦31試合に出場し14ゴールを挙げチーム得点王となる。

この活躍を受け、フェイエノールトほか数々のクラブからオファーを受けるが名古屋からの帰国要請を受け1年後に帰国した。

帰国後、ヴェルディ川崎戦でイマジネーション溢れるドリブルを見せるなど日に日に小倉への期待は高まっていく。

ファルカン率いる日本代表にも選ばれ、その年のキリンカップでA代表デビューを果たす。若干20歳であった。キリンチャレンジカップのフランス戦では途中出場ながら三浦知良と2トップを組み代表初ゴールを奪う。

名古屋ではストイコビッチやジョルジーニョというワールドクラスの選手と絶妙なコンビネーションを見せ、得点を量産していく。帰国後2年目の1995年はリーグ戦37試合に出場し14ゴールを決めた。

アトランタオリンピック出場を目指す日本代表の絶対的ストライカーとして、前園真聖や中田英寿、川口能活といったそうそうたるメンバーよりも評価は高く、小倉にかかる期待は高かった。

しかし1996年、アトランタ五輪アジア最終予選直前のマレーシアでの練習中、競り合いからの着地に失敗し右足後十字靭帯を断裂の大ケガを負う。着地した瞬間に膝から下が逆に曲がり、ピッチ外に靭帯が切れる音が響く程であったという。

エースを欠いた日本代表であったが、オリンピック出場を決め、オリンピック本番でも初戦でブラジルを破るなど注目を集めた。

小倉は選手生命の危機に陥るが、2年間に及ぶリハビリの末1998年に怪我を乗り越え、名古屋グランパスエイトで復帰を果たす。

しかし全盛期のようなキレのあるプレーは見ることが出来ず、リーグ戦13試合に出場し1得点に終わる。

2000年にジェフユナイテッド千葉にレンタル移籍。四日市中央工業時代の中西永輔中田一三と再びプレーする。小倉はシーズンを通してレギュラーとしてプレーするも得点は3に留まり、ジェフも年間順位14位と低迷した事もありこの年限りで退団。

2001年に東京ヴェルディへ加入。

U23でともにプレーした前園真聖とのコンビが期待されたがヴェルディは1stステージ最下位、年間順位も14位で辛うじてJ1に残留するほど精彩を欠く。小倉も思うようなプレーが出来ずまたしても1年でチームを去った。

2002年はコンサドーレ札幌へ移籍。

コンサドーレでは1.5列目に位置しゲームメイクも任される。トリッキーなプレーで復活の兆しを見せリーグ戦7ゴールを決めチーム得点王となった。しかしこの年コンサドーレはJ2に降格。小倉はまたしても1年で去る事になった。

2003年はJ2のヴァンフォーレ甲府へ移籍。

甲府では加入1年目に8年振りとなるリーグ戦2桁ゴールをマーク。翌年にはキャリアハイとなるリーグ戦40試合に出場するなど中心選手として活躍。チームの成績、人気の上昇に貢献した。

2005年は開幕当初はレギュラーであったものの、若手の台頭もあり出番を失いこの年限りで甲府を退団。合同トライアウトに参加するなど移籍先を模索するも決まらずこの年限りで現役を引退した。

小倉隆史の引退後と現在

小倉隆史は引退後、テレビ解説者として活躍。

2015年には古巣の名古屋グランパスのGM補佐に就任。2016年からはGM兼監督というJリーグでは例を見ない異例の大抜擢に世間の注目が集まった。しかし監督としてチームを勝利に導くことは出来ず、シーズン途中で休養。シーズン後に監督の解任とGM職についても契約解除が発表された。

2017年からは地元である三重県の社会人リーグFC.ISE-SHIMAの運営に携わっている。

小倉隆史というサッカー選手を語るに、必ず付きまとうのが「悲劇」や「不運」という言葉だ。
1996年アトランタオリンピック、1998年フランスワールドカップ、そして2002年の日韓ワールドカップ。小倉が輝くべきステージは用意されていただけにあの一瞬の怪我がどうしても悔やまれてしまう。

マレーシアでの悪夢の出来事以降、小倉は怪我との戦いとなり再起までに2年半もの時間を費やすこととなった。その後も何度も膝の手術を繰り返し、痛みに耐えながら4つのチームを渡り歩いた。

自身の思い描く理想的なプレーとは遠くかけ離れた現実。以前ならドリブルで仕掛けていたところをパスを選択する場面も増えた。復帰後の小倉は怪我以前とは全く違うプレースタイルとなってしまったがそれでも技術の高さやセンスの良さは流石であり、苦しみながらもかつて天才と呼ばれた片鱗を見せていた。

毎日の練習では膝のアイシングケアの為に誰よりも遅くまで練習場に残った。練習では常に大きな声を出し精神的にもチームを牽引した。怪我をする前には考えられなかった変化が小倉に確実に起きていた。

小倉は以前、「(あの怪我について)本当にいい経験をさせてもらったと思っているし今の自分も嫌いじゃない」と述べている。実に小倉隆史らしい言葉だと思う。華麗なプレーで天才と呼ばれた小倉隆史と、怪我から復帰後に試行錯誤しながら泥臭くゴールを狙う小倉隆史がどうしても交差してしまうのは事実であるし、今後も「あの怪我がなければ大成していた悲運のストライカー」という言葉が小倉隆史にはついてまわるのかもしれない。

だが、ただひとつ言えることは小倉隆史はサッカーを諦めなかったということだ。最後までストライカーのプライドを捨てずに戦ったということだ。

大怪我から復帰した後に出場した公式戦試合数は192試合に及ぶ。その1試合1試合には小倉の熱い魂が込められている。

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