FW

播戸竜二の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【309回】

20年間の現役生活の中で、Jリーグのリーグ戦通算得点は「109」。

難波の点取り屋は、どんな状況でも最前線で身体を張り、得点にこだわった。

怪我をかえりみず、身体を投げ打ってでもゴールを狙うプレースタイルがゆえに怪我の絶えない播戸竜二であったが、所属したコンサドーレ札幌、ガンバ大阪、ヴィッセル神戸、セレッソ大阪で二桁得点をマーク。

播戸竜二は、黄金世代の一人として活躍。2006年から2008年までは日本代表に選出された。

鋭い動き出しと優れた得点感覚を生かし、泥臭くゴールを狙う炎のストライカー、播戸竜二。

苦しい局面で結果を残す勝負強さを併せ持ち、頼れる点取り屋として活躍した。

播戸竜二のJリーグ入り前


播戸竜二は、1979年に兵庫県姫路市に生まれた。

小学3年の頃コーチに誘われ友人と共に地元のサッカークラブでサッカーを始めた。幼い頃から運動神経が良く色々なスポーツで県大会選抜にも選ばれていたが中学1年の頃、三浦知良の影響でサッカーにのめり込んでいくようになる。

中学卒業後はブラジル留学を目標にしていたが、両親の説得もあり地元兵庫県の琴丘高校へ進学。

高校2年時にトレセン入りし、高校3年時に国体選手に選出。高校3年の最後の大会となる選手権県予選では加地亮や朴康造を擁する滝川二高の前に決勝で敗退した。

播戸竜二のJリーグ入り前

播戸竜二は、1998年ガンバ大阪に練習生を経て入団。

4月11日のJリーグ 1st第5節 vs清水エスパルス戦でJリーグデビューを飾った。

2000年J2であったコンサドーレ札幌にレンタル移籍。

リーグ戦30試合に出場し15得点をマークするなど主力としてチームを支え翌年のJ1昇格にも大きく貢献した。

またU-19/U-20日本代表でも活躍。出場試合はなかったが黄金世代の1人として1999 FIFAワールドユース選手権のメンバーにも選出。

2001年にはA代表候補合宿にも招集された。 2000年ヴィッセル神戸へレンタル移籍。 川勝良一監督のもと三浦知良を中心とし、城彰二、平野孝望月重良のなどスター選手が揃っていたがクラブは最終節までJ1残留争いの渦中にあった。その最終節、播戸は2ゴールを決め、クラブをJ1残留に導く活躍を見せた。

2003年ヴィッセル神戸へ完全移籍。

2004年J1リーグで17得点を挙げ、名古屋のマルケスと並び得点ランキング3位に輝いた。

2006年ガンバ大阪に復帰。

6試合連続ゴールを決めるなどセンセーショナルな活躍見せ、日本代表にも初選出された。親善試合のガーナ戦で代表デビューを飾り、相手選手のスパイクが頭に当たり流血をするも、テーピングで応急処置を施しピッチに戻る気迫を見せた。

2007年に行われたインドとのアジアカップ予選では2ゴールをマークし、3-0での勝利に貢献。代表定着の可能性を見せるも、怪我の影響もあり、2008年の選出を最後に代表からは遠ざかった。

2008年は足首の故障や肝機能障害などで長期離脱を余儀なくされたが持ち前の勝負強さでスーパーサブとして活躍し、在籍期間で2度の天皇杯優勝やAFCチャンピオンズリーグ、国内カップ制覇に貢献した。

2009年、リーグ戦21試合出場2得点と振るわずガンバ大阪を退団。 2010年セレッソ大阪へ完全移籍。

2011年には途中出場ながら2度のハットトリックを達成。 その後、サガン鳥栖、大宮アルディージャでプレー。

2018年FC琉球へ完全移籍。

J3でのプレーは自身初となるがリーグ戦19試合で2得点を記録するなどクラブのJ2リーグ初昇格の一翼を担ったが12月で契約満了となり退団。

播戸竜二の引退後と現在

播戸竜二は、退団後はフリーランスとして生涯現役を公言していたが2019年9月14日に引退を発表。

その発表を受けガンバ大阪はチームの歴史に貢献した選手として1日の選手契約を結び、播戸はガンバ大阪所属の選手として引退セレモニーを行った。

播戸竜二といえば、雨の日も雪の日も、季節を感じさせない半袖のユニフォーム姿が印象的だ。

怪我をおしてでもアグレッシブに走り回り、全力でプレーする播戸竜二のプレースタイルは多くの観客を魅了した。

選手一覧