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秋葉忠宏の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第57回】

中盤の底にポジションを取り、クレバーな守備が持ち味の秋葉忠宏。

その堅実な守備は若き頃から評価され、ワールドユース日本代表やアトランタオリンピック日本代表にも選出された。

最初に所属したジェフではボランチを務め、その後はアビスパ、セレッソ、アルビレックス、ザスパなど様々なクラブを渡り歩き、ボランチのみならずセンターバックも柔軟にこなした。

確かな状況判断と豊富な経験を武器に秋葉忠宏は35歳までピッチで戦い続けた。

秋葉忠宏のプロ入り前


秋葉は1975年に千葉県千葉市に生まれた。

千葉市立千城台旭小学校に入学し、キャプテン翼を読んだ事がきっかけで小学校4年生からサッカーを始める。

千葉市立千城台南中学校を卒業後はサッカーの名門である市立船橋高校へ進学。

1994年、高校3年時に出場した第72回全国高等学校サッカー選手権大会では2回戦で高槻南高校に敗れるも、秋葉は市立船橋の守備の要として活躍した。

市立船橋高校では秋葉の一つ上に鬼木達(元鹿島アントラーズ選手、現川崎フロンターレ監督)、一つ下には後に共にジェフでプレーをする森崎嘉之がいた。

高校を卒業後は地元のJリーグチームジェフユナイテッド市原へ入団する。

秋葉忠宏のプロ入り後

ジェフ市原に加入した秋葉は初年度はリーグ戦1試合のみの出場に留まるが、2年目はレギュラーの座を掴み37試合の出場を果たす。

同年U-20日本代表として1995 FIFAワールドユース選手権に出場し、センターバックとしてチームの準々決勝進出に貢献した。

翌1996年のアトランタオリンピックにも代表として出場した。

グループリーグ1戦目のマイアミの奇跡と呼ばれる日本対ブラジル戦は秋葉はベンチ入りしだが、出場機会はなかった。

2戦目のナイジェリア戦ではDF田中誠に代わり途中出場を果たした。

ジェフでの3年目のシーズンは怪我などの影響もありリーグ戦16試合の出場となりこの年限りで秋葉はジェフを退団し、1997年はアビスパ福岡、1998年はセレッソ大阪へ新天地を求めて移籍するも、いずれも満足のいく結果は果たせなかった。

1998年、秋葉は当時J2だったアルビレックス新潟に移籍。

ここで秋葉は本来のポジションであるボランチやセンターバックとして活躍。

鋭い読みと献身的な守備でアルビレックス新潟の守備を支え、2003年のアルビレックス新潟のJ1昇格に大きく貢献した。

その後秋葉は2005年に徳島ヴォルティスに移籍。

2006年9月よりザスパ草津に期限付き移籍を経て2007年に完全移籍を果たした。

現役晩年は2009年から神奈川県社会人リーグのSC相模原で監督兼選手としてプレー。

2010年限りで退団し、35歳で現役を引退した。

秋葉忠宏の引退後と現在

秋葉は引退後、2011年から2012年まで水戸ホーリーホックのヘッドコーチを務めた。

その後、2013年はザスパ草津の監督、2014年は2016年リオデジャネイロオリンピックを目指すU-21日本代表のコーチに就任。

2017年からは2019 FIFA U-20ワールドカップを目指すU-18日本代表のコーチを担当している。

秋葉は2002年から2007年までJリーグ選手協会の副会長を務めるほど人望が厚く、責任感も強い。

また、秋葉はJFAこころのプラジェクトで夢先生として全国各地の小学校を周り、夢を持つことの大切さを教えて回っている。

今後の日本サッカーの発展において秋葉の存在は重要になってくるだろう。

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