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三都主アレサンドロ(アレックス)の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第339回】

独特のリズムと正確な左足のキックを武器に活躍した三都主アレサンドロ。

スピードに乗ったドリブル突破で相手を抜きさる事が出来るのが最大の魅力で、三都主のクロスから多くのゴールが演出された。

特に清水エスパルス在籍時代の1999年の活躍は凄まじく、左アウトサイドでボールを持った三都主を止めることは容易でなく、まさに脅威そのものだった。

2001年に日本に帰化後、2002年、2006年と2大会連続でワールドカップに出場。日本代表として歴代15位となる82試合に出場し7ゴールをマークした。

三都主アレサンドロのJリーグ入り前


三都主は1977年にブラジルのマリンガに生まれた。

3歳の頃に、グレミオ・マリンガでプロサッカー選手だった父親ウィルソンの影響でサッカーを始め、10歳でグレミオマリンガ少年サッカーチームに入団する。

この頃の三都主の憧れの選手は、ジーコやレオナルド、マラドーナ、そして父親のウィルソンであったと後年語っている。三都主は、ウィルソンの息子ということもあり、「ウィルシーニョ」という愛称で呼ばれていた。

三都主は順当にキャリアを重ね、16歳でグレミオのトップチームに昇格。この年に日本でJリーグが開幕し、ブラジルで放送されたJリーグの試合を見るようになり、日本に興味を抱くようになる。

三都主はグレミオのトップチームに昇格後、初めて出場した練習試合で活躍する。この姿を、現地の留学生獲得のために訪れていた高知県の明徳義塾高校・カルロスコーチの目に留まり、スカウトを受ける。

両親は心配したが、三都主は興味のあった日本でプレー出来るということに喜びを感じ、日本行きを決意する。

当初、来日した三都主は言葉や文化、食べ物の違いに戸惑い、何より異国の地での寮生活に慣れるまで時間がかかった。

しかし、毎日慌ただしく過ぎていく毎日を過ごしているうちに、環境にも徐々に慣れていき、日本での生活を楽しめるようになっていったという。

三都主の他にも3名の留学生を擁した明徳義塾であったが、3年間で高校サッカー県予選を一度も突破することが出来ず、三都主は全国的に無名の選手であった。

ブラジルに帰国することも考えるが、明徳義塾の監督が清水エスパルスのスカウトと知り合いだったこともあり、エスパルスの練習に参加することになる。

1997年、三都主は練習参加で結果を出し、清水エスパルスとプロ契約を結んだ。

三都主アレサンドロのJリーグ入り後

三都主は、加入1年目から出場機会を得る。

1997年4月19日1stステージ第3節ガンバ大阪戦で、後半21分に安藤正裕と交代してJリーフデビューを飾ると、次節からレギュラーに定着。ルーキーながらリーグ戦27試合に出場し、3ゴールを記録した。

突破力があり、キックの正確性も高かったことから、三都主は様々な攻撃的なポジションで起用されるようになるが、徐々に左のアウトサイドで固定されるようになる。

そして1999年は、三都主にとって飛躍の年となった。

左のアウトサイドでボールをもつと、スピードに乗ったドリブル突破からのアーリークロスで攻撃陣を牽引し、エスパルスの躍進に貢献。エスパルスの2ndステージ優勝の原動力となった。

しかし、1stステージ覇者のジュビロ磐田と対決したチャンピオンシップで前半35分に三浦文丈に対する暴力行為で退場になってしまい、PK戦の末に年間チャンピオンの座を逃してしまう。三都主は後年、この試合について「もう一度あの頃に戻りたい」と語っている。

年間チャンピオンの座を逃したものの、三都主は年間を通してハイレベルな活躍を見せたことが評価され、JリーグMVPを獲得する。

この頃から三都主の日本への帰化を望む声が強くなり、三都主自身も意識するようになった。

2001年に無事、日本人への帰化が認められ、「アレサンドロ・ドス・サントス」から日本名「三都主アレサンドロ」となった。「三都主」は本人にとって思い出深い「ブラジル・高知・清水」の3つの都市を意味している。

日本人となった三都主は、日本代表監督のトルシエより招集を受け、2002年3月のウクライナ戦で代表デビューを飾る。

トルシエ監督時代は、左アウトサイドのオプションとして重宝され、2002年日韓ワールドカップにも出場した。ベスト8進出をかけて臨んだトルコ戦では、フリーキッカーも担ったが、左足で放ったシュートはポストに直撃し、惜しくもゴールとはならなかった。

2004年には、清水エスパルスから浦和レッズに移籍。移籍金は当時の国内最高金額である3億8000万円と報道された。

浦和では2004年のJ1 2ndステージ、2006年のJ1、2005年度と2006年度の天皇杯に優勝した。

日本代表としても継続して招集され、2006年のドイツワールドカップにも出場。

ジーコ監督から、4バックの左サイドバックにコンバートされ、出場を続けるも不慣れな守備に奔走され、持ち味である突破力が影を潜めるようになっていった。

2007年には初の海外移籍となるオーストリアのザルツブルグへレンタル移籍し、リーグ優勝を経験。

2008年に浦和レッズに復帰するも、開幕直前に左足付け根を負傷し、手術を行うことになる。これまで大きな怪我をしてこなかった三都主にとって、初めての長期離脱となった。

2009年途中から名古屋グランパスへ移籍し、左サイドやボランチとしてプレー。高精度のドリブルとキックで好機を演出した。

2012年に契約満了となり、名古屋を退団した三都主は、合同トライアウトを経て、2013年にJ2の栃木SCへ加入。1年間プレーし、リーグ戦25試合に出場したものの、この年で退団。

2014年には同じくJ2のFC岐阜へ入団。ラモス瑠偉が監督に就任し、日本代表で活躍した川口能活、そして三都主がプレーするということでメディアで大きく取り上げられた。しかしチームの成績は年間17位と沈み、三都主はチームを離れることとなった。

2015年にブラジルに帰国し、プロとしてスタートを切ったグレミオ・マリンガで3ヶ月のみプレーして現役を引退した。

三都主アレサンドロの引退後と現在

三都主は現役引退後、故郷ブラジルで生活を送っている。

サッカー指導者として活動する傍ら、2016年12月には、「INSTITUTO ALEX SANTOS」というサッカーや柔道、空手、キックボクシング、柔術、カポエラ、ストリートダンスなど、スポーツを通じて子どもが育つようにサポートをする会社を立ち上げ、後進の育成に力を入れている。

日本にもサッカー教室の開催や、盟友の引退マッチで毎年のように訪れている。2021年1月には母校の明徳義塾を訪問するなど、交流は続いているようだ。

遠い異国の地からやってきた少年が日本での生活に慣れ親しみ、プロ選手として大成するということは並大抵のことではない。

三都主も、来日した当初は白米とみそ汁が食べられず、朝食に出たパンを他の生徒からもらい、昼と夜に食べていたという。

いくら大好きなサッカーをやれる環境にあるといっても、言葉も通じない、食事も合わない、規律の厳しい寮生活を送るという毎日はとても厳しいものだったと思う。

それでも三都主は、日本を愛し、日本での生活に順応し、日本代表として82試合に出場するという偉大な選手となった。

2大会連続でワールドカップに出場し、多くの日本人に夢を与えた三都主が、ブラジルと日本の架け橋となり、今度は指導者として活躍する日が来ることを待ち望んでやまない。

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