読売出身者らしい確かなボールコントロールと、読売出身者らしくないハングリーで泥臭いプレーが身上のストライカー関浩二。
ゴールの嗅覚に優れ、ワンタッチで沈める能力に長ける。
1995年には東京ガスでJFL日本人得点王となり、翌年にはJリーグのベルマーレ平塚に移籍。
ベルマーレ平塚では司令塔・中田英寿とのコンビで得点を量産。
1996年ナビスコカップでは得点ランキング2位となる8ゴールをマークした。
関浩二のJリーグ入り前
小学校の時にサッカーを始め、永山SCに入団。早くから頭角を現す。
将来性を評価され、読売サッカークラブ(現ヴェルディ川崎)の下部組織に入る。
高校進学後は読売ユースへ昇格。
同期に村田達哉、蓮見知弘、阿部良則。1学年上に冨樫剛一、河本充弘、中村忠、1学年下に山口貴之がいる。
読売ユース時代は日本クラブユース選手権で3連覇を果たすなど、この年代で別格の強さを誇った読売の得点源として活躍した。
高校3年次には国体に出場。また日本ユース代表に選出されている。
1990年、高校卒業後にJSL1部の読売サッカークラブ(現ヴェルディ川崎)のトップチームに昇格する。
しかし層の厚い読売では出場機会に恵まれず、JSL2部の読売サッカークラブ・ジュニオールへ移籍。
阿部良則や冨樫剛一らとともにプレーした。
1993年にJリーグが開幕。
ヴェルディ川崎の選手として登録されるもFWには三浦知良、武田修宏、藤吉信次、パウリーニョ、阿部良則などがおり、出場機会は得られずに退団。
1994年にJFLの東京ガスサッカー部(現FC東京)に移籍。
東京ガスではアマラオとの2トップで活躍。
加入初年度にリーグ戦26試合で15得点を挙げると、翌年には27試合で25得点を挙げ、JFL日本人得点王となり、ベストイレブンに選出された。
この活躍を受け、翌年にはJリーグのベルマーレ平塚へ移籍する。
関浩二のJリーグ入り後
加入初年度のシーズン序盤は、パウリーニョ、野口幸司というストライカーが在籍していたためサブに甘んじるも、第3節ジェフ市原戦で途中出場からJリーグ初ゴールをマーク。
その後はパウリーニョが不調であったため、第4節鹿島アントラーズ戦から出場機会を得る。
第18節ジュビロ磐田戦で2ゴールを挙げ、3-0での勝利に貢献するなど、中田英寿とのホットラインを確立。
リーグ戦21試合で6ゴールを挙げる活躍を見せた。
また同年のナビスコカップでは15試合で8ゴールと大活躍。
チームは準決勝の清水エスパルス戦で0-5で敗れるも、関は清水のオリバの9得点に次ぐ得点ランキング2位にランクインした。
1997年からは背番号9を背負う。
呂比須ワグナーの加入により、先発出場は限られるも、スーパーサブとして存在感を発揮。
スピードを生かしてカウンターの起点となるなど活躍。リーグ戦16試合に出場し1ゴールを挙げた。
しかし1998年はリーグ戦7試合の出場に留まり、出場機会を求めてシーズン途中に古巣の東京ガスへ移籍。
主にサイドハーフとしてプレーし、チームのJFL初優勝に貢献した。
また同年10月にはJ2降格の危機に立たされてたコンサドーレ札幌へレンタル移籍。
同時期に加入した棚田伸、埜下荘司とともに残留するために戦うも、アビスパ福岡に敗れ翌年のJ2降格が決定した。
1999年も札幌でプレー。
寒い時期でも常に半袖ユニフォームを着用してプレーする姿が注目され、多くのサポーターから愛された。
吉原宏太、ジネイ、深川友貴らとともにポジションを争う中でリーグ戦25試合に出場し6ゴールを挙げるもJ1昇格は果たせずこの年限りで退団。
2000年からは地元の関東1部リーグに所属する青梅FCへ移籍。
JFL昇格を目標に3年間プレーし、地域決勝まで進むも敗退。2002年に現役を引退した。
関浩二の引退後と現在
関は引退後、コンサドーレ札幌の下部組織で指導者としてのキャリアをスタート。
その後はツエーゲン金沢、カマタマーレ讃岐などでコーチを務め、2023年からはJ2レノファ山口FCのコーチに就任している。