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朴康造(パクカンジョ)の現役時代、生い立ちやプレースタイルに迫る【第484回】

身長165センチと小柄ながら、スピードに乗ったドリブル突破から、鮮やかなラストパス、そしてフィニッシュまでもっていける右サイドのアタッカー朴康造(パクカンジョ)。

滝川第二高校卒業後に京都パープルサンガへ入団するも出場機会に恵まれず、僅か2年で退団しKリーグ城南FCへ移籍。

同年、城南FCで活躍し韓国代表に選出され国際Aマッチ5試合に出場したシンデレラボーイ。

2003年、2度目のJリーグ挑戦としてヴィッセル神戸に移籍すると右サイドの不動のレギュラーとして10年間に渡り活躍。

子供の頃からの憧れであったボートレーサーへの挑戦のため、突如現役を引退したことは多くのメディアで報じられた。

朴康造(パクカンジョ)のJリーグ入り前


パクは1980年、兵庫県尼崎市に在日韓国人三世として生まれた。

幼稚園の時に兄の影響でボールを蹴り始め、尼崎朝鮮初中級学校入学後、3年生の時に本格的にサッカーを始めた。

子供の頃から小柄であったが、ボールコントロールに優れていたため4年生の時には6年生のチームで練習を重ねた。
6年生の時には朝鮮学校の全国対抗大会に出場。パクは全国選抜チーム代表に選ばれ、韓国の平壌遠征に参加した。

尼崎朝鮮初中級学校卒業後、滝川第二高校へ進学。
同学年に加地亮(セレッソ大阪)、1学年下に鎌田祥平(徳島ヴォルティス)、林丈統(ジェフユナイテッド千葉)がいる。

滝川第二高校では高校1年次からレギュラーで活躍。
高校2年次から兵庫県選抜に選出し国体に出場。
高校3年次には背番号10を背負い、司令塔として活躍。
選手権大会兵庫県予選決勝で強豪の琴が丘高校に0-2で負けていたが、逆転勝ちし全国選手権出場を決めた。
全国選手権では3回戦まで進むも丸岡高校に0-1で敗れてベスト8進出は叶わなかった。
同年のインターハイ・全日本ユース選手権へも出場を果たした。

高校卒業後、京都パープルサンガへ入団する。
同期入団に南明宏、川勝博康がいる。

朴康造(パクカンジョ)のJリーグ入り後


1998年、期待の司令塔として京都に入団したパクだったが、入団1年目はサテライトでの調整が続いた。
入団2年目の1999年9月4日2ndステージ第6節サンフレッチェ広島戦でベンチ入りをすると後半36分に鈴木健仁と交代でJリーグデビューを果たし、憧れの三浦知良と同じピッチに立った。

しかしその後はベンチ入りも出来ず、この年を持って京都を退団。
京都では2年間の在籍で1試合の出場に留まった。

その後、スポーツライターの崔仁和からの紹介で韓国のKリーグ城南FCの入団テストを受ける。
パクはここで結果をだし、城南一和に入団。
Jリーグ経験者として初めてのKリーガーとなった。

2000年、城南FCでは攻撃的MFとしてシーズンを通して起用される。
同年5月12日、韓国代表の許丁茂監督により韓国代表として選出されると、5月28日のユーゴスラビア戦で代表デビューを飾る。
同年の国際Aマッチ5試合に出場し、エジプト戦では芸術的なフリーキックを決めて見せた。
2001年、2002年と城南FCのKリーグ連覇に貢献。

2003年、ヴィッセル神戸へ移籍。再び三浦知良とともにプレーをすることになった。
しかしシーズン序盤は出場機会を得られず、7月にはKリーグの浦項スティーラーズへの移籍が噂されるようなる。
だがシーズン終盤には右サイドのレギュラーを獲得。この年はリーグ戦13試合に出場した。

2004年からは背番号を7に変更。
2005年はリーグ戦1試合を除いてすべての試合に出場するがチームは年間で僅か4勝しか挙げられずJ2へ降格する苦しいシーズンとなった。
パクは、チームの監督が2004年からの1年半でハシェック、加藤寛、松永英機、エメルソン・レオン、パベル・ジェハークと5人が入れ替わる事態となったがどの監督からも評価され出場機会を得た。

2006年は自身初めてのJ2での戦いとなったが、右サイドのポジションで不動のレギュラーとして活躍。
同年5月14日コンサドーレ札幌戦では右ウイングとして出場し神戸の選手として史上5人目となるハットトリックを記録し6-1での勝利に貢献した。
この年はキャリアハイとなるリーグ戦43試合で10ゴールを決め、1年でのJ1復帰の立役者となった。

2008年4月13日第6節京都サンガ戦で、前半に激しい接触によりじん帯損傷の大怪我を負い以降のリーグ戦は欠場することになった。
2009年に復帰を果たすと、再び右サイドのスペシャリストとして存在感を示す。
同年9月20日第26節ジェフ千葉戦では2ゴールを決めるなど、この年はリーグ戦22試合で5ゴールをマークした。

2010年、2011年も右サイドの位置は揺るがず主力として活躍。

2012年は野沢拓也の加入により出場機会は減少するも、リーグ戦20試合に出場した。
同年の最終節にもベンチ入りしており、来期も主力として起用されることが予想されていたが、シーズン終了の12月に現役を引退することを表明。
子供の頃からのもう一つの夢であった競艇選手への挑戦のためであった。
パクは惜しまれつつも15年間の現役生活を終えた。

朴康造(パクカンジョ)の引退後と現在

パクは引退後、2013年にボートレーサーを養成する「やまと学校」の第114期選手養成員として入学。
1年の訓練を経て、2014年5月にデビューする予定であったが、Jリーグ時代に痛めていた右膝の状態悪化の為短期間で退学することになった。
現役を引退して新たな夢を志した男の挑戦は、不本意な形で幕を閉じることになった。

その後、パクは古巣のヴィッセル神戸のスクールコーチに就任。

2022年からはWEリーグのINAC神戸レオネッサのコーチに就任し、2023年からは監督として指揮を執っている。

在日韓国人のKリーグへの入団・韓国代表入りはいずれも韓国サッカー史上初のことであった。

パクは、京都を戦力外となった翌年にKリーグ城南FCで活躍し、韓国代表に選出された年にこのような言葉を残している。

「僕が頑張ることで在日の可能性を広くアピールすることができる。多くの在日が僕に続いてほしい。」

その後、パクの背中を追うように、鄭大世(チョンテセ)、李忠成(リタダナリ)、安英学(アン・ヨンハ)、梁勇基(リャン・ヨンギ)、李栄直(リ・ヨンジ)など多くの在日選手がJリーグで活躍を続けている。

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